- 【今川氏真】バカ殿を語ろう【山名豊国】 Part.2 [転載禁止]©2ch.net
414 :人間七七四年[sage]:2015/07/09(木) 06:28:55.12 ID:Dhm6Yl7d - Wikipediaで「鳥取城」の項目を読んでいたんですが、秀吉が開戦前に商人を動員し、米の価格をつり上げて鳥取城の兵糧を売却させるように仕向けたというエピソードは、
どうやら『陰徳太平記』が出典とされているらしいです。 そこで国会図書館の近代デジタルライブラリーで『陰徳太平記』を調べてみましたが、「巻64 牛尾春重入鳥取城事」という章にそのエピソードがありました。 時系列で見れば、これは山名豊国が鳥取城を退去した後の出来事だし、兵糧を売却したのは森下・中村であったことが明記されています。 「森下中村等浅智ニシテ是ヲ謀トハ夢ニモ不知眼前ノ利欲ニ心耽テ。蓄置タル兵糧共悉ク取出シ糶トナスコソ方便ケレ。」 (森下中村らはバカだったから、これが秀吉の作戦だとは夢にも思わず、眼前の利益に目がくらみ、蓄えていた兵糧をことごとく取り出して売ってしまうのがよいと思った) つまり豊国は悪くなかったんだね! ところで、このついでに気づいたのですが、豊国のいわゆるバカ殿ぶりは『陰徳太平記』に描写されていました。 家臣の妻子が人質になったときは見殺しにしていたくせに、いざ自分の娘が殺されそうになると恐ろしくなって秀吉に屈服した。 その身勝手さのせいで家臣から憎まれて追放されたというエピソードです。 これが「山名豊国付心変森下中村背豊国事」という章に載っていました。 しかし留意するべきは、『陰徳太平記』の著者が長州藩士だということです。この本は完全に毛利側の視点で描かれています。 さらに言っておくと、この『陰徳太平記』は吉川広家の命令でその老臣が覚書を書き、そこから作成開始されたものだそうです。 この吉川の一族であった吉川経家こそ、かつて鳥取城に迎えられて籠城を指揮した総大将でしたが、彼は秀吉の兵糧攻めに敗れて切腹させられました。 だから吉川の人々は、秀吉に通じた山名豊国に相当ムカついていたんだろうなと思います。 なので本書で豊国のバカ殿ぶりが出てくる箇所は、いちじるしく公平性を欠いていると見るべきでしょう。
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415 :人間七七四年[sage]:2015/07/09(木) 06:41:06.97 ID:Dhm6Yl7d - 一応書いておくと、『陰徳太平記』にでてくる豊国のバカ殿ぶりは次のとおりです。
(正確な現代語訳じゃなくて、おおざっぱに省略して書いてます。 出典は「山名豊国付心変森下中村背豊国事」) 秀吉が大軍を率いて鳥取に攻めてきて、「こちらの傘下に入れば人質を返すし、因幡一国も安堵してやるが、もし逆らったなら人質を殺す」と言ってきた。 豊国は秀吉に降ろうと思ったが、家臣たちの心を知りたくて相談した。家臣たちは 「山名家はかつて毛利元就の加勢を得たおかげで因幡を治めることができました。 これはひとえに毛利元就の御恩ですが、尼子勝久・山中鹿之助に同心してそれを毛利を裏切り、吉川元春がこれを破れば再び毛利へ寝返り、こんな無節操は前代未聞です。 我々は武士なのだから、差し出した人質を殺される覚悟はできております。今こそ毛利への忠義を果たしましょう。」 と主張したので、豊国はその意見をもっともだと思った。 秀吉は怒って、城の前で人質を磔にして処刑を始めた。 家臣たちは自分の子供が殺されていくのを必死の思いで耐え忍んだ。 子供たちも武士の家に生まれた以上、親のために死ぬのは当然だと思い、女子でさえも親を恨むことなく処刑される覚悟ができていた。 夕方ごろ、人質となっていた家臣の子供たちが全員死に絶えて、とうとう豊国の娘が処刑される番になった。 娘は逆さにして磔にされ、両手を固定され、その肌にするどい刃を当てられた。秀吉は使者を送って 「どうだ豊国。娘の命が惜しくて因幡一国も望むなら、さっさと織田の味方となるがよい。 もし従わなければ娘を突き殺すだけではなく、すぐに城を攻め落として、城にいるお前らと妻子全員の首を刎ねてやる。 そこまでして毛利に味方するべきかどうかよく考えろ。3日待ってやる」 と言ってきた。豊国も最初はともかく、途中から心変わりしてきて、 「娘を殺されたら生きている意味がない。出家して高野山にでも入ろうか。 自分の身のこと、この国のことより、子供たちが栄えてくれることの方が重要だ。」 と嘆きだし、森下・山口以下の家臣はそれを諌めることはできなかった。彼らは 「我々が最愛の子供を捨てたのは主君への忠義のためだった。 しかし、その主君が娘さまを失いなさり、国を捨てて先祖の名をお汚しになってしまうのは愚の骨頂。 子供を殺されたあげくその敵に降参するのは悔しいが、我々がそれを我慢することもまた主君への忠義と言えるだろう。 こうなってしまっては言葉がない」 と言って、豊国の決断にすべてを任せることにした。 豊国は大いに喜び、すぐに秀吉に使いを出して「お味方になりますので娘の命を助けてください」と伝えた。 秀吉は「豊国は我が計略に落ちたぞ」と喜んで娘の命を助けてやったが、豊国が軍門に降った後、 秀吉は約束をやぶって因幡一国を自分の家臣たちに分け与え、豊国にはわずか2郡だけを与えた。 山口以下の家臣たちは自分の子供を殺された上に領地まで減らされて、あれこれと不満を言った。 「自分たちは忠節を尽くしてきた」と豊国に訴えたが、豊国はそれを聞いても全く心を動かさず、かえって非礼なやり方で彼らを冷遇した。 二心の無かった山口・森下らもついに豊国を恨み、毛利を頼ることを決め、因幡を毛利に任せることにした。 そのため豊国は鳥取城にいられなくなり、毛利浄意入道という1人だけを引き連れて城を脱出、姫路におもむいて秀吉に事の次第を報告した。
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416 :414, 415[sage]:2015/07/09(木) 06:46:32.31 ID:Dhm6Yl7d - そもそも『陰徳太平記』は、山名豊国に対する評価が偏っているだけじゃなく、史料としても信憑性が低いとされているらしいです。
私は該当箇所を調べるために初めてこの本を読んでみたのですけど、まるで軍記物の小説みたいな書き方がされていました。 著者は登場人物の善悪を決めつけて描いてしまっているし、細部を描くために想像で補っているのは明らかです。臨場感たっぷりのセリフみたいな言葉が出てきます。歴史書としては先述した『因幡民談記』の足元にも及ばないでしょう。 例えば秀吉が鳥取城を攻める直前、商人を動員して米価(五穀の価格)を釣り上げたという作戦はスケールが壮大すぎて、いかにも創作っぽく聞こえてしまうんですが、実際はどうだったんでしょうね? また、豊国が娘を殺されそうになったら恐れて降参したというエピソードも、これ以外に何かちゃんとした史料があるんでしょうか?
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420 :人間七七四年[sage]:2015/07/09(木) 22:55:24.13 ID:Dhm6Yl7d - >>418
小坂 博之「山名豊国」(1973年)という本のことですか? Amazonの中古価格が高いな。図書館にあればいいのだが。 「陰徳太平記」は歴史書じゃなく、小説というかんじでした。 登場人物がセリフをしゃべるし、場面ごとに細かい描写があって、著者が勝手な想像をふくらませて書いたのだと思います。 こういう歴史小説の場合、おおまかな展開は史実にもとづいてますが、細部については要検証ですね……
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