トップページ > 戦国時代 > 2015年07月05日 > VFcLBEJh

書き込み順位&時間帯一覧

9 位/93 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000000000000000020013



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
1/2
2/2
人間七七四年
戦国ちょっと悪い話42 [転載禁止]©2ch.net
【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ5【道雪】©2ch.net

書き込みレス一覧

戦国ちょっと悪い話42 [転載禁止]©2ch.net
29 :1/2[sage]:2015/07/05(日) 20:29:32.52 ID:VFcLBEJh
武田信玄公がご他界されたころより、織田信長は上杉謙信を敬い、かつて信玄公に対してそうであったように、
1年に7度づつ節句を祝う使者を寄越し、佐々権左衛門という譜代の侍を越後に詰めさせ、都の絵図を
狩野に書かせ、謙信に信長より進上されました。
これに対し謙信は1年に1度も信長に使いをよこすことはありません。2年に1度ばかりがようやくです。

この頃においては、越中の侍である神保が信長の妹婿であるため、内々合力し、謙信に対し盾を付けと申し寄越し、
謙信に隠れて山道を整備し、信長はそれを援助しました。

信玄公の時は、信長は織田掃部、佐々権左衛門を甲府に年に8,9度は差し寄越しながら、家康に対し
内々に取り込み、信玄公に対し盾を突くように申し送りました。
その頃と同じように、信長は今謙信の機嫌を取り、様々に軽蔑を受けているといえども、そんな中
神保を取り込んだことに謙信は腹を立て、神保を抑えおき、加賀国松任城の長という侍が信長方であったため、
この城に攻め寄せると、信長は了見無く、長を助けるため後詰の軍勢を出しました。

その大将は柴田修理、以下佐久間玄蕃、丹羽五郎左衛門、長谷川お竹、前田又左衛門、木下藤吉、徳山五兵衛、
大垣の卜全、滝川伊予、都合4万8千の軍勢で、右の後詰と称し出陣し、松任まで一里半ほどの川を越し、
信長勢が陣取った所、謙信既に、松任城を攻め落とし長の頸を取っており、信長の後詰勢が来たと聞くと、
早々に夜中に出陣し、明朝卯の刻(午前6時頃)合戦と定めました。一の鐘に諸軍集合し、二の鐘に武具を付け、
三の鐘に打ち出よとの命を下しました。

ところが織田軍は謙信が出馬したとの情報を聞くや、尽く敗軍して、後作もなく夜に逃げ出し、
川を越す時に徒歩の兵が多く溺死までして、信長勢は越前まで引き込みました。
謙信は卯の刻にかの川端まで進んで付近に住人に何が起こったかを詳しく尋ねると、大いに笑って

「さすがの信長勢かな!そのまま罷り有れば蹴散らして川へ攻め落としたのに、一段巧者かな」と
褒め、その後謙信は信長に書状を出しました。その内容は

『信長は謙信よりも一段上であるようだ。奥州の長鑓担ぎの侍のようだとは少しも思わない。
聞く所によると信長は居住している都周辺の、京皮草履を履いて川を渡ったそうだ。

(信長が主に敵対していた)公方家の侍衆の挨拶は、輝虎の合戦とは少々違うものであるので、
互いにたしなみ、来年越前において一戦つかまつろう。であれば、我が生国越後は雪深き国であるので、
3月より前には出来ない。3月15日には、必ず輝虎も越後を出るので、その時分に信長も安土を出馬し、
実否を決める一戦をしようではないか。

武田信玄他界の後、その子四郎(勝頼)に数カ所の要害を信長は攻め取られたが、その後信長の武勇よろしき故か
四郎勝頼に勝って、勝頼のことは三河の家康に任せ、去年より近江安土に居住しているのは、定めて
謙信の上洛を妨げるためとの事、疑いない。』

この書状の使いはしんや源介という謙信旗本の侍で、謙信の出頭人である河田豊前からも曽根平兵衛という者が
差しよこされていた。謙信から信長への音物は越後布二千端でありました。
戦国ちょっと悪い話42 [転載禁止]©2ch.net
30 :2/2[sage]:2015/07/05(日) 20:30:26.64 ID:VFcLBEJh
信長は謙信の使者に言われた
「武辺は誰でも致すといえども、謙信の弓矢は摩利支天の技である。謙信が御上洛の折は越前までは防ぐが、
それでも防ぐことが出来なければ、近江長浜まで引取り、その上で私は長浜で扇一本を腰に挿し、
一騎乗り込み、『信長にて候。降参申す』と言って、都に案内するだろう。そうなればさすがの謙信も、
信長が骨折りして取った天下を召し上げるとは言い出さないだろう。その時和平を結び、信長は西国、
謙信は東を治め、日本国を両旗にて意見仕り、公方様を取り立てよう」

そう、いかにも構わぬ返事でした。
謙信の使いが帰国してこれを報告すると、謙信は
「信長は敗北し、本当に我々に立ち向かってこないように聞こえても、彼は27歳の時、
八百ばかりの人数で二万の今川義元を打ち取り、伊勢の国司(北畠)をおしつめ、縁者を組んでは
その上で殺し、美濃の斎藤龍興を討ち、勝頼には木の柵を巡らせて勝ち、即時に岩村に打ち寄せ、
叶わなければ捨て、やりやすい越前の朝倉を、その年六月に出陣し7月中に滅ぼし、世間において
鬼神のように言われる。

だが、信長は三万にて浅井備前三千に突き立てられ、十町あまり逃げて小身の、しかも当時若大将であった
家康のおかげで利運したが、その姉川合戦は信長の勝利としか言わない。
金崎に出陣した時は一騎だけで逃げた。若狭には家康を頼み越したのに、その家康をも捨てて退いた。
信玄の時代には様々に手を入れ、手切れをした後も甲府に人を付け置いて関係を繕っていたことを、
手柄の上は誰も言わない。長篠において勝頼に勝てば、信長の勝利とばかり言う。
木の柵を結って勝ったということも、よくよく弓矢の詮索のある侍こそ言うが、殆どの人は
細かなことは知らぬものだ。

来春輝虎が上洛するにおいては、この謙信の鋭鋒の先に信長が立ち向かうことは出来ない。
しかし五年前、信玄が他界する時言っていたそうだ。
『私が死んだ後は、謙信意外に信長を押し詰める者は日本に居ない。信長は果報強きものであるから、
信長と取り合いをしたため、私も早くに死することとなったのだ。
輝虎も信長と取り合いをするようになれば、弓矢においては輝虎は、信長よりはるかに上であるが故に、
五年以内に輝虎も死ぬだろう。』

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、手取川の戦いとその後の謙信と信長のやりとりについてである。
【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ5【道雪】©2ch.net
68 :人間七七四年[sage]:2015/07/05(日) 23:53:31.78 ID:VFcLBEJh
>>66
宗茂に対して諱で呼べるのは主君や朝廷くらい。他は仮名か官職で呼ぶから問題ない


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。