- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
684 :人間七七四年[sage]:2015/06/14(日) 13:00:03.37 ID:nHTr+JQ+ - フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し 法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、 かつ彼と結ばれていたのである。 あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。 さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって 彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。 そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。 …関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと 自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。 特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。 関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。 秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より 関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、 ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実 だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。 母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし 神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように 「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し 秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。 関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。 その後妹も同じように殺されてる。 秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも 信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
|
- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
685 :人間七七四年[sage]:2015/06/14(日) 13:01:35.74 ID:nHTr+JQ+ - 秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし 上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず) 実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし 京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、 東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて 信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが) 年代記や記録類をみても 享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦 永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親 本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別 高野春秋→信雄・秀吉両公和睦 当代記→信雄秀吉令一和 などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし 秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも 秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。 だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて 秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず 秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから 長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに 土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。 看羊録 家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。 秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。 家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。 家康は事のなりゆきを観望していた。 秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。 家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
|
- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
686 :人間七七四年[sage]:2015/06/14(日) 13:02:33.73 ID:nHTr+JQ+ - 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに あきれ果てたのは間違いない。 天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い 真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる 領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと 着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。 どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな 秀吉は完全に土下座状態だったからね 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で 国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて 普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら 直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
|