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184 :人間七七四年[sage]:2015/06/14(日) 03:11:27.95 ID:93mxXO27 - 寒河江広俊の遺書
慶長19(1614)年1月18日、雪の残る山形城で最上義光が69歳で没すると、葬儀は2月6日に慶長寺(現在の山形市三日町長源寺域。寺名は光禅寺に後に変えられ、鳥居忠政の時代に郊外に移された)で執り行われ、 その日の酉刻(18時頃)に4人の家臣が腹を切って殉死した 殉死の筆頭は寒河江領主2万7000石の寒河江肥前(寒河江広俊) 1580年代に楯岡満茂を介し、早くから最上義光に味方の意を示し、山形に協力を惜しまなかったために信任を得、義光も大いに広俊に報いた 「霧となり霞と消える夕べかな」 「神去りまします悲しみにたへず。従ひたてまつらんと思ひつめ(最上義光公の死で生きる支えを失いました。殉死してあの世のお供をさせて頂きたいと考える所存です)」 「寒河江文書」 最上義光の死には山家河内(山家良干入道)、長岡但馬、寒河江広俊の息子の十兵衛(寒河江元茂)が追腹を切り 主人があの世で道に迷わない様に、酉刻前に寒河江肥前の従者が2人腹を切った 現在の鉄砲町光禅寺の最上義光の墓所前には 寒河江親子、長岡但馬、山家河内ら4人の墓が死後も義光に付き従っている
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