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人間七七四年
最大版図を築き上げるも家を没落させた当主を語れ
【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?

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最大版図を築き上げるも家を没落させた当主を語れ
221 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 18:47:01.13 ID:ez+mlQw9
領域だけをみるとチートに見えるが
内政放棄し領地支配がザル。


信長の戦力集中できる最大兵力は3万が限界。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
秀長がこれを知り大激怒してる。

信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。

北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
377 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 18:49:39.25 ID:ez+mlQw9
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、
圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、
これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。

石高がいくら広くても、それを把握していないから、
石高に応じた軍役や装備が課せないため
中世の寄親、寄子の原始的暴力集団だったのが織田軍
武田や上杉や北条は領土を把握し軍役を課し、
兵種に応じた編成と、陣立が表すようにそれを自在に移動、
配置が可能な組織的近代軍隊だった。

信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究の第一人者の金子氏の信長評

「戦国大名は天下統一の為に競い合っていた」という戦国大名観は近年では否定されていますが、
信長だけは例外と見做されてきました。しかし著者が発見した書簡を初めとする史料から見えてくる
客観的な信長像は、他の戦国大名とさほど違ったものではありません。
有名な「天下布武」の印章も、信長が「天下を取る」ことを宣言したものではありません。
天下とは日本「全国」ではなく、京都を中心とした畿内のことに過ぎません。
「天下布武」とは、畿内の秩序維持を、足利将軍をサポートして自分が執り行うという意味なのです。
秀吉が行ったのはまさに「全国統一」でしたが、信長にはそういう意志はなかったのではないでしょうか。
しかし『天下布武』の構想も信長の言うなれば「脳内」のものに過ぎず、
「大義名分」として説得力のあるものではありません。信長が足利義昭になりかわって
事実上の将軍の職務を担っているからといって、
他大名には信長の「言い分」に従わなければならないいわれはないのです。
結局、信長は武力で「言い分」を認めさせるしかなくなります。
自称「天下をおおせつかっている」信長は、かくして諸大名との衝突を繰り返します。
例えば上杉氏とは当初、良好な関係にありましたが、
信長の版図が拡大し直接境を接するようになると両者は戦争になります。
そのような行動が後世の目で見ると、着々と諸勢力を征服して
「天下統一」へと邁進していたかのように見えたのです。
そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。
征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。
その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。


池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。

池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
378 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 18:50:26.79 ID:ez+mlQw9
領域だけをみるとチートに見えるが
内政放棄し領地支配がザル。


信長の戦力集中できる最大兵力は3万が限界。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。
秀長がこれを知り大激怒してる。

信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。

北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
最大版図を築き上げるも家を没落させた当主を語れ
222 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 18:53:10.67 ID:ez+mlQw9
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、
圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、
これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。

石高がいくら広くても、それを把握していないから、
石高に応じた軍役や装備が課せないため
中世の寄親、寄子の原始的暴力集団だったのが織田軍
武田や上杉や北条は領土を把握し軍役を課し、
兵種に応じた編成と、陣立が表すようにそれを自在に移動、
配置が可能な組織的近代軍隊だった。

信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究の第一人者の金子氏の信長評

「戦国大名は天下統一の為に競い合っていた」という戦国大名観は近年では否定されていますが、
信長だけは例外と見做されてきました。しかし著者が発見した書簡を初めとする史料から見えてくる
客観的な信長像は、他の戦国大名とさほど違ったものではありません。
有名な「天下布武」の印章も、信長が「天下を取る」ことを宣言したものではありません。
天下とは日本「全国」ではなく、京都を中心とした畿内のことに過ぎません。
「天下布武」とは、畿内の秩序維持を、足利将軍をサポートして自分が執り行うという意味なのです。
秀吉が行ったのはまさに「全国統一」でしたが、信長にはそういう意志はなかったのではないでしょうか。
しかし『天下布武』の構想も信長の言うなれば「脳内」のものに過ぎず、
「大義名分」として説得力のあるものではありません。信長が足利義昭になりかわって
事実上の将軍の職務を担っているからといって、
他大名には信長の「言い分」に従わなければならないいわれはないのです。
結局、信長は武力で「言い分」を認めさせるしかなくなります。
自称「天下をおおせつかっている」信長は、かくして諸大名との衝突を繰り返します。
例えば上杉氏とは当初、良好な関係にありましたが、
信長の版図が拡大し直接境を接するようになると両者は戦争になります。
そのような行動が後世の目で見ると、着々と諸勢力を征服して
「天下統一」へと邁進していたかのように見えたのです。
そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。
征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。
その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。


池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
従って武篇道と戦果が問題となる。

池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
673 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 19:29:45.26 ID:ez+mlQw9
天正12年戦役で秀吉に大敗した家康。
完全に威信が地に落ちた徳川w
翌年11月にはついに武田の影に怯えて甲信から糞漏らしながら全面撤退命令www

秀吉配下の前田が越中口から、北信濃口と越後口から上杉、飛騨口から金森、木曽郡から木曽軍が怒涛の勢いで南下。
家康が相変わらず援軍を出さないで見捨て始めるとたまらず小笠原氏が秀吉へ内通開始。
三河物語によると武田信玄の息子の龍宝の嫡男が
北信濃の一向宗と合流した師慶と
菊姫に随行していた八重森因幡守家昌に守られ犬飼村におり
その武田信道が景勝南下とともに甲斐に帰還する。
このような話を聞いた家康は甲斐は乱国になるとビビりにビビり、
なんと信濃甲斐から浜松へ全軍逃げて来いと命令。
信濃佐久郡から大久保忠世、諏訪郡より芝田康忠、甲州郡から平岩親吉らは
ものすごい勢いで真田軍の目の前から浜松へ逃走w
置き去りにされた地元の菅沼定利が一人で人質集めを始めて南信濃の崩壊を防いでくれた。
また佐久郡から甲斐への道は、まさか武田の影に怯えていたとは気づかなかった
真田昌幸が景勝によくわからんけど全軍浜松へ逃げたから調査するよと返答し
様子見していたので崩壊せずに済んだwww
家康は相変わらずのヘタレである。
武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
674 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 19:39:08.48 ID:ez+mlQw9
必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、 無位無官の平民羽柴秀吉と、
近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。
そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、 朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、
天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw
そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、
11月までには参内権を許可するなど、 急いで秀吉の参内を促していたが、
有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、
初参内は13年3/10の時まで待たされた。
秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、
すぐ得意がって参内するはずだろがw
そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw
同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、 官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、
無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www

そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、
(秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない)
命欲しさの家康が懇望していただけで、賛成している者は徳川家臣団には無く、
明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、
秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww
天正14年5/25の秀吉書状には、家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、
実際、5/28の祝言日にも、 酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、
そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、
謀反を恐れた家康は、 いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、
信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。
ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、
6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、
6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、
秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。
しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、 11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、
徳川正室問題は揉めていて、 秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、
秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、 徳川正室に入り込むことになり、
7月に家康が真田攻めしようとしても、 妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら
従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。


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