トップページ > 戦国時代 > 2015年06月12日 > 3gD86tGa

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人間七七四年
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899 :人間七七四年[sage]:2015/06/12(金) 21:59:48.96 ID:3gD86tGa
武田の御備色かはる


天正元年4月12日に信玄公は御他界されたが、3年それを隠して3年目に遺骸を言い置いたようにして、
葬儀するようにとの信玄公の御遺言であった。ではあったが、周囲では大方他界したのだろうと
推量し、小田原の北条氏政は越後の上杉謙信に、武田信玄は他界した模様であると使いを送り、
また内々に遠州浜松の徳川家康へもこの情報が氏政より伝えられた。

駿河の武田配下の内にも朝比奈駿河、岡部丹後の両人は信玄によく親しんでいたため、この死去の情報が
伝えられると内々に涙を流し、その夜は岡部次郎右衛門を始め、尽く顔の色が変わったという。

ことさら、三河の徳川との前線にあった奥平美作守(定能)の子息久八郎(信昌)は寝返った。
仔細は、この武士は占いを信じたため、武田勝頼の酉年の年筮を、前年申年極月月末に卦を立てた所、
その詞に『馬前に人去りてかりぐんと称す』と出たのを、奥平父子は聞いて、

「信玄公は巳の歳であったので、御他界の噂は大方疑いない。」
そう考えて心変わりしたのである。

これについて武田勝頼は、東美濃に同年6月、出兵あるべきと主張した。これについて馬場美濃、内藤修理、
山県三郎兵衛、高坂弾正の四人を始め各家老衆は申し上げた
「それは信玄公の御遺言のように3年目を待ち、その上敵方より当方に攻撃を仕掛けてくるのを
待つのが尤もと存じます。」

これに対し、長坂長閑、跡部大炊介は申し上げた
「御屋形様の御意と、家老衆の分別との間を取って申します。まず当年は武田家分国五ヶ国の総軍勢を
出すことは止められ、甲州一国の軍勢を2つに分けて、山形三郎兵衛を先鋒に、穴山殿、一条殿に、
逍遙軒(武田信廉)を大将分になされ、遠州に出兵することが尤もと考えます。
また三河には馬場美濃を先鋒に、小山田兵衛尉に典厩(武田信豊)を大将にお定めあって、長篠の城を
家康が攻撃しておりますから、その後詰として用いるのが尤もです。」

勝頼は長坂・跡部の意見を受け入れ、三河へは典厩、馬場美濃、小山田を出兵させた。

然しながら、信玄が他界したため、武田軍は上から下まで気力をなくしていた。
長篠城の向かい、いぬの小山に典厩が着陣した時には、長篠城を守っていた信州先方衆は、降伏して
家康に城を明け渡していた。
さらに遠州のもりという場所では、逍遙軒は慎重さの足りない人であったので、家康の家老である
本多作左衛門、本多平八郎、榊原小平太の3人に敗北し、穴山殿と一条殿の二手によってなんとか押し返した。

山県三郎兵衛は家康の構築した小屋(前線基地)を落とすために人数を遣わしていたが、逍遙軒の敗北を聞いて
急遽一騎がけにもりへ駆けつけた。しかし家康の軍勢は勝って兜の緒を締め、早々に引き取っていたため
空振りに終わり、5日には山県を始め武田勢は各々甲州に引き上げた。

信玄公御他界の故に、武田の御備の色が変わったと言われたが、その元はここであった。

(甲陽軍鑑)


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