- なぜ、徳川家康は嫌われるのか? [転載禁止]©2ch.net
321 :人間七七四年[sage]:2015/06/07(日) 11:32:49.87 ID:tO5HX+MD - 秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、 石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、 これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww 在日朝鮮織田チョンくんさー、 三河一向一揆との戦い以来の超古参の 石川数正や酒井忠次や本多重次らから、 強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう? ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww 天正15年正月時点で、出奔した石川の後任として本多重次が 西三河の旗頭の岡崎城代で 酒井忠次が東三河の旗頭の吉田城代なんだけどwww すでに彼らから人質として嫡男を取っている三河国は秀吉の支配に入ったといってもいい。 秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。 最古参筆頭として石川数正と同格。 他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、 井伊直政に至ってはさらに13歳下。 本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
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322 :人間七七四年[sage]:2015/06/07(日) 11:34:24.77 ID:tO5HX+MD - アンチ秀吉織田チョン大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。 あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。 ・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。 朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。 ・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。 家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。 家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。 ・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、 すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として 三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。 天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して 一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。 大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。 天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。 アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴 基本的に自分の間違いは訂正しない。 常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ 相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。 史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。 秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが 武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。 他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。 武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ 自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。 日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。 思考回路 いや秀吉の業績は全部、 信長から考えていたことで、 全て信長がやろうとしていたことを盗んだだけって論法で 秀吉を貶しているので、 在日は信長がむちゃくちゃ好き。 しかも信長なら半島侵略じゃなくて、 大航海時代みたいな進出で各地に日本街を作り、 家康みたいな鎖国もせずに貿易立国していたとか妄想するからな。 在日は家康の場合は好きなんじゃなく、秀吉を貶すツールとして利用してるだけ。 (朝鮮を侵略した秀吉の全人格を否定し悪魔と罵倒しつつ、 日本人を大量虐殺した信長や家康をマンセーする左翼脳。 それどころか豊臣政権を守ろうとした忠臣三成を自分ででっち上げた噂で中傷しつつ 看羊録曰く朝鮮人に囲まれていた輝元を全力擁護。)
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323 :人間七七四年[sage]:2015/06/07(日) 11:39:26.32 ID:tO5HX+MD - 信長の戦力集中できる最大兵力は3万が限界。
大和一国支配者の興福寺 1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石 かんぜんにナメきってる報告っぷりw 秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。 信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの 石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。 しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。 北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり 軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、 それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。 また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。 織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。 織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので 地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。 3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し 軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。 天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。 これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。 (秀吉文書をすべてチェックし『豊臣秀吉文書目録』を編纂した三鬼清一郎 小牧長久手の秀吉兵力を三鬼氏は10万は誇張で実際は6万と指摘) 排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も 毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。 一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。 この限界の壁と突破できるのが内政軍制改革の結果であり、 圧倒的大軍による威信を背景にした「位攻め」戦略であり、 これが達成できない限り全国支配など夢のまた夢。 石高がいくら広くても、それを把握していないから、 石高に応じた軍役や装備が課せないため 中世の寄親、寄子の原始的暴力集団だったのが織田軍 武田や上杉や北条は領土を把握し軍役を課し、 兵種に応じた編成と、陣立が表すようにそれを自在に移動、 配置が可能な組織的近代軍隊だった。
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324 :人間七七四年[sage]:2015/06/07(日) 11:41:42.00 ID:tO5HX+MD - 鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは 当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。 合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、 今日の学術的な研究とは違います。 谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、 戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても 「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」 堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。 江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと 書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、 天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。 史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。 また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。 小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。 実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。 美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。 だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。 (秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造) そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、 何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。 この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。 しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと 鴨川論文で明らかになりました。
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