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804 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 06:37:14.82 ID:n4nOaZ3m - 鬼武蔵もかっこよくなったなあ。
http://www.gamecity.ne.jp/souzou/wpk/countdown2/images/0519/htw_0519.jpg 「数多くの型破りな逸話」って、やっぱりここ発信なんだろうなw
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- スレ立てるまでもない質問スレ
233 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 17:18:19.24 ID:n4nOaZ3m - >>232
秀吉は最晩年に成って利家の官位や待遇を引き上げ、家康の対抗馬にしようとしたのは確か。 ただし利家ももちろん独立の大名なので、自分の家が第一であり、その意味では家康とも利害を共にしていた。 逆に豊臣家のそのものの利害代表である奉行の三成とは、政治的目的のため組むことがあっても、根本的には 利害を異にしていた。
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17 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 18:08:34.46 ID:n4nOaZ3m - >>15
> 恐怖のあまり失禁したみたいな記述や、恐怖のあまり逃げながら排泄を済ませて浜松に帰ったとか書いてあるなら創作とは呼べないだろう かいてねーよバーカ。 そもそも大久保忠佐の発言も家康が物見から戻ってきた時のもので戦闘ですら無い。 原文くらい読め
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812 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 20:41:53.01 ID:n4nOaZ3m - 天正16年正月20日、黒田孝高(官兵衛)は、豊臣秀吉より浅野長政、加藤清正、小西行長ら2万の兵と共に、
肥後国人一揆に苦しむ佐々成政の元へ援軍として向かうことを命ぜられ、2月に肥後へと向かった。 この時、城井中務(鎮房)は、最前まで敵となっており、その上所々に放火し、乱暴狼藉をした存在で あったため、そのままに差し置き難い存在であった。 彼は一旦の難を逃れるために降参したと言っても、城井谷の城から澤田の邸宅まで、猶も要害を構え 野心を秘めているとの噂も聞こえていた。必ず国の仇と成るべき者であった。 黒田孝高は出陣にあたり、城井に対して必ず油断無いよう言い置いて出発した。 ところが、孝高が出発したあと、城井中務は案内もなく、手勢200ばかり連れて、黒田長政への一礼の為と 言って、不意に中津城へとやって来たのである。 長政はこれを聞いて「誠に一礼のためなら、父子同じく在城の時、日限をうかがった上で、 小勢にて参上すべきであるのに、案内もなく俄に押しかけ来ること、ますます無礼の至である! もし見目の時に至って、猶も無礼の体であれば即座に誅殺すべし!」そう決定した。 その時、中津城内に居合わせていたのは、武士17人、足軽中元もようやく100人程度であった。 さて、この日の城井への酌をするのに、吉田又助が出ることを命ぜられた。 「いよいよ城井を誅する時は、盃をさした時、肴を乞う。その時に、後藤太郎助(後藤又兵衛長男)が 肴を持ち出て、一の太刀を打つ。私(長政)は二の太刀を打つ」と定められた。 吉田又助はこの時17歳であったが、長政に申し上げた 「今日の酌を仰せ付けられたこと、誠に身の面目と存じます。しかし私は今年、日向での合戦の折 左の膝口を斬られ、命はようやく助かりましたが、陣中でもあったので血を止める暇もなく、 多量に出血したため、体力が弱ってしまいました。 いまは少々歩行が出来るほどに回復しましたが、なおも足腰弱く、手の力も未だに戻っていません。 大事のご奉公を辞退するのは残念ですが、もし御用に立たなければ御為悪しき事になります。 ですので、体の達者なものに仰せ付けられるのが然るべきかと存じます。」 長政はこれを聞いたが 「お前が未だ、体力が戻っていないこと、良くわかっている。しかし今日の酌に、手足のつよきことは さほど要らぬ。ただ、冷静で動揺しないことが必要なのだ。 酌はお前がするように。」 そう仰せ下したため、又助も重ねて辞退には及ばなかった。 (黒田家譜) 黒田長政による、城井鎮房謀殺に至るまでの記事である。
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