- 甲陽軍鑑の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ©2ch.net
3 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 00:49:12.64 ID:jNd3BEWK - 信長公記に比べたらだいぶマシだな。
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- 三方ヶ原合戦の真実 [転載禁止]©2ch.net
69 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 00:51:21.69 ID:jNd3BEWK - 執拗に信玄が激怒したと連呼するバカ織田在日www
実際は「兵が疲弊しているのはわかりますが絶好に機会ですよ」って書いてるだけw
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- 【DQN】森長可【鬼武蔵】
832 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 00:56:34.63 ID:jNd3BEWK - 森長可の居城の金山城の目と鼻の先の明智城が勝頼に攻め落とされるのを
ビビって息を潜めて目を逸らしていたヘタレ長可www その後は北信濃から逃亡してきたり、家康にフルボッコされて討ち死にwww 所詮、織田軍なんて屑屁たれ武将ぞろいwww
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- [転載禁止] 武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part5©2ch.net
902 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 01:27:39.05 ID:jNd3BEWK - 残念。書状どころか信長公記にすら「明智城」と書いてる。
恵那市のは明知城。 可児市のは明智荘があった場所だから明智城。 そんな基礎的なことも知らないとは・・・
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- 甲陽軍鑑の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ©2ch.net
4 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 09:00:38.97 ID:jNd3BEWK - 最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1980年代までは信憑性がないと研究者から批判されてきたがこれは江戸時代からの史学の流れ。 しかし1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは 柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、 それどころか桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を 織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。 これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の 信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。 旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。 読む場合に注意すべき点は 軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている 特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で 勘助自体が存在しないと言われる所以である 原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を 小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。 市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され 晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。 この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。 この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。 また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが 出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。 三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に 無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上 太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。 永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。 そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので 信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで 信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので 太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
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- [転載禁止] 武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part5©2ch.net
907 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 09:13:47.18 ID:jNd3BEWK - 織田チョンの主張を尊重するなら
甲陽軍鑑では信玄が岐阜よりわずか六里の距離まで進出していて 岩村と土岐の仕置きを信玄がしていたと書かれてるし 三河鳳来寺に武田軍が陣を置いて牛窪・長沢方面にも軍を動かし 岡崎の北わずか4里の宮崎に出城を築いていると書いているのも事実なんだな。
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- 【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】 [転載禁止]©2ch.net
147 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 09:22:58.10 ID:jNd3BEWK - 秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、 石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、 これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww 在日朝鮮織田チョンくんさー、 三河一向一揆との戦い以来の超古参の 石川数正や酒井忠次や本多重次らから、 強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう? ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww 秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。 最古参筆頭として石川数正と同格。 他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、 井伊直政に至ってはさらに13歳下。 本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。 アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw 天正15年正月時点で、 本多重次は岡崎城代で、 酒井忠次が吉田城代なんだけどwww 天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。 天正12年戦役の結果、岡崎&吉田という三河の要衝を人質を通じて秀吉が押さえたといっていい状態になってるわけだw
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- 【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】 [転載禁止]©2ch.net
148 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 09:24:24.13 ID:jNd3BEWK - このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。 鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、 1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。 これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、 誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。 そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。 そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。 キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは 藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻) っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる 2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから 相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。 続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく 小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と 長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。 楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても 要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。 それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。 しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。 森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。 (だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった) 鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した 愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。 【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、 秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、 家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】 小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを 小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。 これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。 はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。 鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて 岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。 鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて 後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。 一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて 天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。 織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし。しかも捏造歪曲しまくりじゃんw 鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw 鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。 原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。 むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく 史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。 幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。 そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。
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149 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 09:26:19.35 ID:jNd3BEWK - 三鬼氏は秀吉文書目録を完成発表した秀吉研究での第一人者なのも知らんで貶しててワロスw
秀吉文書をすべてチェックし『豊臣秀吉文書目録』を編纂した三鬼清一郎は、 秀吉研究の第一人者だから間違いはないだろうね。 世界で一番秀吉に詳しい人と言っても過言じゃない。 (小牧長久手の秀吉兵力を三鬼氏は10万は誇張で実際は6万と指摘) 鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。 後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは 当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。 合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、 今日の学術的な研究とは違います。 谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、 戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても 「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」 堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。 江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと 書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、 天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。 史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。 また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。 小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。 実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。 美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。 だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。 (秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造) そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、 何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。 この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。 しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと 鴨川論文で明らかになりました。
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- 【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】 [転載禁止]©2ch.net
150 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 09:26:53.58 ID:jNd3BEWK - アンチ秀吉織田チョン大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。 あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。 ・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。 朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。 ・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。 家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。 家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。 ・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、 すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として 三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。 天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して 一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。 大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。 天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。 アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴 基本的に自分の間違いは訂正しない。 常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ 相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。 史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。 秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが 武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。 他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。 武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ 自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。 日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
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