- 【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】 [転載禁止]©2ch.net
151 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:45:25.61 ID:TMrNf3MF - >>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画 そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは 3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や 3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」 佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。 白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので 三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。 その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。 長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため 五月上旬には岐阜まで退却し 来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。 あの中入り作戦は秀吉が立案したもの 敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の 一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。 森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。 仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず 否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。 丹羽は若狭の城主となって後出世が 頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも 信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も 京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。 清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた 5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。 執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。 しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
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154 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:46:29.31 ID:TMrNf3MF - >秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない
それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、 原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。 しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね >家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています 小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」 敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは 3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や 3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」 佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。 白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので 三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。 その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。 長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため 五月上旬には岐阜まで退却し 来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
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156 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:47:08.96 ID:TMrNf3MF - 秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる) VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北 浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる 秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の 二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず 信雄方に奪回されてる) 小牧長久手合戦後の出来事 4/30日〜5/2頃 二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記) 6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記) 6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記) 7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長) 7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田) 11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村) 4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状) 秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮) また、3月から戸木城 4月から松の木城、東駒野城 6月から河波城、 などを攻略していたが いずれも落ちずに撃退されてる 6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる 元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。 秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは 3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や 3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」 佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。 白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので 三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。 その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。 長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため 五月上旬には岐阜まで退却し 来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。 自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の 雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
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158 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:47:46.96 ID:TMrNf3MF - 別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。 つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、 家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら 一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな 小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず 自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、 秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、 徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて 秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、 結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。 結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され 眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。 こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ 結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず 小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから 徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし 他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる 大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと 基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね 近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである 公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。 83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき 関係を構築しうる二重性を備えていた
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160 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:48:40.22 ID:TMrNf3MF - 秀吉は家滅ぼしまくりだぞ
家康や信雄も当初は滅ぼすき満々で書状に徳川を討ち滅ぼすとか何回も書いてるが 実力では全く歯が立たなかったので母や妹や関東250万石まで差し出して土下座講和した。 ・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない) ・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。 ・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し 煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。 ・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質 ・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる ・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる) ・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり 清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。 ・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。 ・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる ・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。 ・宇都宮を改易する ・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐 ・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる ・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする ・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる ・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。 この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる ・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国 の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した
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162 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:49:23.59 ID:TMrNf3MF - 吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。 4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて 池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。 別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい 長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。 さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね。 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから 秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか 秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが… 別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。 また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。 つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、 家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら 一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな 秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし 信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる 何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし 佐々成政にいちゃもんつけて改易したり 関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる 秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし 実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ
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164 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:50:05.55 ID:TMrNf3MF - 秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ (3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状) が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので 敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。 そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから 敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと 長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理) 対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄 そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、 信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから 一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる) いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。 しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが 本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり 防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが 土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び 家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で 慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。 結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり 豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。 ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状 5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし 吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし 4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。 4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて 池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。 別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい 長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。 さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね。 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
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166 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:50:49.76 ID:TMrNf3MF - 4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ 小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と 秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる 4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗 長久手町史通史編 谷口央氏 P276 4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で 楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる 大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。 続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎ その後に三河国への進軍を計画していたところである 以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。 そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである 谷口央氏 「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」 秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号 と柏井にいる一柳に伝えている このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。 しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎ 小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる
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168 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:51:24.10 ID:TMrNf3MF - >>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。 そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状) 長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので 時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる 6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり 秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
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170 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:52:02.40 ID:TMrNf3MF - >>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画 そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは 3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や 3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」 佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。 白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので 三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。 その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。 長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため 五月上旬には岐阜まで退却し 来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。 あの中入り作戦は秀吉が立案したもの 敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の 一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。 森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。 仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず 否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。 丹羽は若狭の城主となって後出世が 頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも 信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も 京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。 清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた 5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。 執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。 しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
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171 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:56:50.99 ID:TMrNf3MF - >>それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。 大嘘 秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは 3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や 3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」 佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。 白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので 三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。 その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。 長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した 秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。 実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる 3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」 4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。 龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し 家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。 桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし 小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる 長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も 『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状) 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛) と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。 5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。 この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、 この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが) 秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
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172 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:58:53.66 ID:TMrNf3MF - 3/13秀吉の丹羽長秀宛書状
此表十四五日之内ニハ、世上之物狂も酒酔の醒たることく二、筑前以覚悟しつめ可申候間、 4/8秀吉→丹羽書状 去6日に池勝入・森武・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて至小幡表差遣、小幡城二ノ丸迄攻入首百余討取、則龍泉寺山を根城二拵、柏井・大草 何も取積丈夫之普請申付候、今名中に首尾候間、然者小幡・森山其他不残令放火、至参州表令手遣可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼国へ差遣候事 家康さへ討果候へは彼等儀者不入儀候間、助首城を可請取由申遣候間、彼表人数二万余も五三日中に可令着陣候、併泉州表為番勢備前衆一万計相越候条、 岸和田・大阪に達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令着陣候事 家康を取巻、即時可討果候間、少しも御気遣有間敷候事 5/9秀吉→毛利輝元書状 必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす 長岡越中宛5月11日書状 小牧表人数討入刻、家康於相慕者、遂一戦可討果処 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛) 3月22日渡辺清忠書状 家康尾州境陣取候之条、可被討果之由候て、筑州御人数十万余にて至濃州御陣替候、一両日中二家康城清0州申へ 被成御取寄候、天下之御弓御一大事之儀候間 3/23桂広繁→棚守書状 徳川事三介殿後見被仕候付而、可被討果之由候て尾州表へ陣替候 佐竹義重宛書状 清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たす 29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 4/10 秀吉→亀井書状 家康小牧山二居陣候間、拾四五町二押詰陣取候、急度可討果候間可心易候 3/24秀吉→生駒書状 此表儀越川清州可押詰ため今日岐阜へ相移候 3/29秀吉→木曽書状 家康小牧山上居陣、其節為先手森武岩渓山・窪、稲葉伊予青塚、其外諸勢十町・十五町に陣持せ申候、我等儀ハ 楽田城着申事候、大略今明内に可為敗軍候哉、於相踏者悉可討果事案内候 4/1 秀吉→羽柴秀勝書状 敵小牧山取上候条、十五町計に責詰、荒手を上堀構を申付候間、急度可討果候、可御心安候 4/8秀吉→毛利輝元 我等者楽田と申所に致居陣候、小牧山十四五町におし寄、 不罷退様に陣取候条、急度可討果事案之内候事 5/9秀吉→毛利輝元 加賀野井城二屈強之者相籠候間、彼等を於取巻者、 必家康後巻可仕儀にて候間、此口へ引出及一戦可討果と存
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- 【天下布武】織田信長総合スレ【吉法師】
531 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 10:15:54.81 ID:TMrNf3MF - あ
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- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
977 :人間七七四年[]:2015/05/20(水) 10:16:43.58 ID:TMrNf3MF - あ
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- 【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】 [転載禁止]©2ch.net
175 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 11:03:13.33 ID:TMrNf3MF - >>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任 はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。 ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。 >>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質 アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。 停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし >>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる 戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、 近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。 戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。 彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。 池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに 「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の 天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」 家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条) 跡部信氏 秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。 こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。 岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」 であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。 >>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも 蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても 尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。 朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです 長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため 各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊 豊臣滅亡で完全に負け犬 朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ 史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
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- 滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか
974 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 23:16:57.85 ID:TMrNf3MF - >>973
そんな妄想論言われても上杉は御館の乱も、その後の中郡での黒川清実、本庄秀綱らとの戦いでも大将自ら動いてるし 信長は柴田軍45000に森6000滝川20000に新発田・伊達・葦名連合まで外交によって動かしてるから十分軍の数は派遣してる 毛利は120万石前後あるのに対して、上杉はわずか30万石前後でしかないから、割合から考えればもっともっと少ない兵力を送っても解決する戦争に対して 信長は毛利よりもずっと多大な兵力を派遣してる
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- 滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか
977 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 23:24:11.25 ID:TMrNf3MF - 謙信の死
御館の乱 乱後の中郡の反景勝勢力とそれを支援する伊達葦名との攻防 新発田の乱 織田はつくづく運だけは一流。 しかし実力は皆無なので、上杉の自爆に付け込んで北陸を長・佐々・斉藤・神保らに、柴田らも加えてコソドロさせて 越中能登は城割と国人の粛清で、国内を空洞状態にしたヌルゲー勝負でも 柴田45000森6000滝川10000+伊達・葦名・新発田20000と総勢90000前後で挑みかかっても 上杉6000に撃退されまくるアホっぷり。 これだけ実力差があってはいくら兵力差があろうと 自爆状態を火事場ドロボウされようと勝てるわけがない。
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