- 【長久手戦闘】 小牧役を語る3 【信雄vs秀吉】 [転載禁止]©2ch.net
155 :人間七七四年[sage]:2015/05/20(水) 09:46:49.43 ID:PuDuTree - >小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。 それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね 小幡城=家康方の拠点 小牧山=家康方拠点 だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は 小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ 鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。 169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/ 4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ 小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と 秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる 4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗 長久手町史通史編 谷口央氏 P276 4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で 楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる 大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。 続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎ その後に三河国への進軍を計画していたところである 以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。 そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである 谷口央氏 「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」 秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号 と柏井にいる一柳に伝えている このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。 しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎ 小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる
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