- もし関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら・・・ [転載禁止]©2ch.net
97 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:25:47.23 ID:aq347AXk - >>葦名盛重と秀忠のやり取りの書状が残っている
詳細まだ?
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- 小牧・長久手の戦い2
483 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:44:35.94 ID:aq347AXk - 三鬼氏は秀吉文書目録を完成発表した秀吉研究での第一人者なのも知らんで貶しててワロスw
秀吉文書をすべてチェックし『豊臣秀吉文書目録』を編纂した三鬼清一郎は、 秀吉研究の第一人者だから間違いはないだろうね。 世界で一番秀吉に詳しい人と言っても過言じゃない。 (小牧長久手の秀吉兵力を三鬼氏は10万は誇張で実際は6万と指摘) 鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。 後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは 当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。 合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、 今日の学術的な研究とは違います。 谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、 戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても 「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」 堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。 江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと 書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、 天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。 史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。 また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。 小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。 実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。 美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。 だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。 (秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造) そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、 何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。 この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。 しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと 鴨川論文で明らかになりました。
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484 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:47:37.15 ID:aq347AXk - 家康が源氏姓を称するのが天正16年4月。
天正18年8月関東移封。 これは関東地方では源頼朝以来の源氏の伝統があったため家康が源氏を称することにより 関東支配を円滑にすすめさせようとする秀吉の政策が見える。 それゆえに関東入部以前から源氏姓を称する必要があった。 つまり東国平定の成功が征夷大将軍任官と関わりがある。 無位無官の平民羽柴秀吉が家康に勝利し臣従させたことを認めた朝廷は 東国平定の武功を称え天正12年10/16秀吉は天皇に将軍任官を勧められたのである。 このことで秀吉は朝廷から公認され身分が向上したことで 織田家を臣従させているため下克上にはならないのである。 また秀吉が義昭に断れたので征夷代将軍を諦め関白を狙ったとする捏造ですが、 これは堀氏によればたまたま起こった関白職を巡る二条と近衛の相論に乗じた「たなぼた」でした。 信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、 秀吉は家康と戦っている最中であっても、 正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。 譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年) 正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、 家康を朝廷に帰服させるべく、 秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、 11/1に家康がやっと上洛してきて、 秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、 7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。 家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、 後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。 11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、 12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。 新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、 私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
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485 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:48:29.87 ID:aq347AXk - このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。 鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、 1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。 これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、 誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。 そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。 そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。 キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは 藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻) っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる 2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから 相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。 続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく 小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と 長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。 楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても 要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。 それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。 しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。 森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。 (だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった) 鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した 愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。 【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、 秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、 家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】 小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを 小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。 これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。 はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。
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486 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:49:41.91 ID:aq347AXk - 鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。 鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて 後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。 一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて 天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。 織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし。しかも捏造歪曲しまくりじゃんw 鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw 鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。 原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。 むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく 史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。 幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。 そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。 だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、 家康から秀康を始め、 石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、 これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww 在日朝鮮織田チョンくんさー、 三河一向一揆との戦い以来の超古参の 石川数正や酒井忠次や本多重次らから、 強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう? ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
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487 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:52:55.96 ID:aq347AXk - 天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、 酒井忠次が吉田城代なんだけどwww 天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。 そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを、 (秀吉の妹が質と書かれている書状は存在しない) 命欲しさの家康が懇望していただけで、 賛成している者は徳川家臣団には無く、 明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされてるだけなのに、 秀吉の妹は人質になっていたと連呼して馬鹿じゃないかwww 天正14年5/25の秀吉書状には、 家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候 などと書いていて戦を回避する為に家康が懇望していたのが分かるし、 実際、5/28の祝言日にも、 酒井忠次や本多忠勝や榊原康政が、 そっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した為に、 謀反を恐れた家康は、 いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れて、 信雄の面目が失われ、秀吉立腹となってる。 ビビった家康は何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み、 6/9にやろうと決めるが家中内和睦をまとめるのに難航し、 6/6にやっと本多忠勝が清洲の信雄の元に、 徳川家臣団の女房たちを人質に送り込んだおかげで、 秀吉の妹が三河へ移動できる状態になるものの、 9日には祝言が挙げられずに10日にズレる。 しかし11日にズレる程に徳川内は混乱し、 11日やっと秀吉の妹がやってくるほど、 徳川正室問題は揉めていて、 秀吉にしてみれば徳川家中が混乱した方が良いわけで、 秀吉の思惑通りに妹が徳川家臣団の大反対を押し切り、 徳川正室に入り込むことになり、 7月に家康が真田攻めしようとしても、 妹の旦那に対して秀吉が、真田攻めを止めさせたら従う他無くなってしまうまでに影響力を行使出来るようになった。
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488 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:55:20.72 ID:aq347AXk - 家康ほどの棚ぼた大名はいないね。
棚ぼただから、とにかく武功なんてものがロクにない。 だから家臣団も全く加増されるような感状がほとんど無い無い無い。 勝って切り取った領地が無い無い無い。 とにかく極限まで棚ぼた領地拡大大名が家康。 それを証明するように、関東移封になった時の3万を超えた家臣なんてほとんどいない。 12万石の井伊直政 10万石の結城秀康、榊原康政、本多忠勝 4万石の鳥居元忠、大久保忠世 3万3000石の平岩親吉 3万石の松平康貞、奥平信昌、酒井家次、大須賀忠政 たったこれっぽっち。 あとは戦力にすらないザコ。 当時、10万石を超えていない大名の意見は聞かれない、発言権が無いとされて無力扱いされていた時代だからね。 棚ぼた領地だから、家臣の武功によって領地加増する必要性が無かった。 だから家康は100万石の蔵入地を持ってた。 しかも井伊直政なんて戦経験もロクにない新参のガキ扱いされてたくせに、 家康の尻を突いてブッチュウってディープキスしただけで、 意味不明な加増してもらった挙句に最大領地だよw 結城秀康は秀吉の養子だからだしよ。 松平シリーズなんて武功ではなく、親族だから加増になってるだけ。 もうね、家臣団は誰も家康との石高差が激し過ぎて奴隷だよ奴隷。 ほんとケチ家康の家臣団なんてやってた三河武士はバカだね。 徳川家臣団なんてぶっちゃけ清正だけで勝てるレベル。 当時、もっともハンパねぇ勇猛さで恐れられていたのは清正と忠興の二人だったからね。
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489 :人間七七四年[]:2015/05/11(月) 15:57:54.09 ID:aq347AXk - 確かに家康って感状をほとんど出してないんだよな。
3万石の松平康貞=依田信蕃の次男説が事実だとしたら、 武田旧臣で真田調略して北条氏直の背後を閉じた父の功績だけで、 速攻で徳川家臣8位だしね。 奥平信昌に至っては長篠の戦いの後に、 調略の条件になった家康の長女との婚姻関係だけが理由だからね。 むしろ榊原康政と本多忠勝って、 家康より5歳歳下の子飼いなだけで、 武功らしい武功がまるでないよね。 鳥居元忠は家康の4歳上、 平岩親吉は家康より1歳歳上で、 家康を弟として守り支えた側近中の側近小姓として苦労を共にしていたから完全に今までありがとう功労賞だろうし。 大須賀忠政の場合は実父が榊原康政だからだし。 大久保一族なんて三河物語で誇張されてるだけで実体はよくわからん典型。 ただ徳川家の場合、家康との関係が近くて、ほぼ三河以来の小姓側近からの子飼いじゃないと万石大名になれない。 ホモ関係だけで家中第一にのし上がった井伊直政は例外中の例外。 武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、 甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して 甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。 依田信蕃はもっと評価されるべき名将。 依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。 孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、 天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。 家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得て やっと開城したほど徹底抗戦したので、依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが 幸いして調略がうまくいっていたからね。 特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が 9/28真田家を調略したのは大金星 これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。 9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、 秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように 必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。 天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、 長曾我部らに対して、もうすぐ北条の援軍がくるから! とか言い出して白昼夢願望を語り始めたよなw だいたいウソ援軍話を家康が言い出した時は超劣勢で、 他大名に見限られないよう繋ぎ止める為の虚勢。 秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず 信雄への援軍すら出せずに見捨てたくらいヘタレてたのに 秀吉から懇望があったからとか負け惜しみ言ってるくらいw 家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳するし、 ハッタリとウソで生きてきた詐欺師なのが家康。
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