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72 :人間七七四年[sage]:2015/05/11(月) 10:21:14.45 ID:Kz6XXzk/ - 家康の公儀性、と、大名たちが受け入れた、に疑問が
あったということね。 これはそんなに論点では無かったのじゃないかな。 家康に従った武将たちはすでに、公儀性、は 問題にしてなかったろうし 秀秋とかが東軍を選んだ理由、とかは また後の話じゃないかな。 そしてこれも、個別論、で語るべきかもしれない。 それよりも上杉討伐中止の決定が早いのが 興味深い。 よく言われる「上杉攻撃は本気じゃなかった」 「西をひっかける作戦」みたいなのの傍証になる。 「ちがひの条」ではなく「上方雑説」で中止にしてるというのも 大事なとこだしね。 それと細かいけど、白峰は家康が「ちがひの条」を受け取ったのは 24日以前、21〜23日の可能性もある、としている。 これを「知ってて、触状、と矮小化した」というのは 「ちがひの条」の重要性を知ってて隠した、ということで 家康が「ちがひの条に込められた公儀性」というのを 意識していた、ということにもなるかもしれない。 もちろんこれは家康に聞かないとわからないし 「公儀」の意味にもよるし、少し違う話。 自分としては、家康は上杉討伐を決めた時点、というか ずっと前から「豊臣公儀」からははずれてる、という意識があって それが「ちがひの条」で明確になった、という流れと思ってる。 だから白峰論の「石田が自ら宣言して公儀を名乗った」というのも そんなにトンデモでもないし、石田ー家康の関係その他、からして 逆に意味はあったのではないかな、とは思う。 単に、家康を非難する、以上の意味合いということだけど。 長くなってすまん。
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