- 小牧・長久手の戦い2
269 :人間七七四年[]:2015/05/04(月) 20:38:43.75 ID:X5u62ZnA - 必死に朝廷工作して官位をあげたとか曲解もいいとこw
実際、秀吉が家康と戦っていた時は、 無位無官の平民羽柴秀吉と、 近衛中将経験者2人(信雄と家康)と戦っていた。 そして平民秀吉が家康らを圧倒したから、 朝廷は急いで秀吉を取り込もうと、 天正12年10/2に従五位下の叙爵少将の叙任の勅使を急遽派遣してんだよw そして朝廷は同日には早くも秀吉の参内権の是非まで諮り、 11月までには参内権を許可するなど、 急いで秀吉の参内を促していたが、 有職故実の儀礼知識が無い素人秀吉は参内を逡巡し、 初参内は13年3/10の時まで待たされた。 秀吉が必死に官位官職を上げて家康らの上に行こうと働きかけていたら、 すぐ得意がって参内するはずだろがw そもそもお前はこの時点での秀吉が無位無官なのすら知らなかったのがモロバレw 同じ文脈でお前は関ヶ原を語り、 官位官職が一番上だった家康に従わないヤツが悪いとか吐いてるが、 無位無官の平民秀吉が官位官職を持つ家康や信雄を逆に従わさせてるわけだがwww完全に矛盾www
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- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
549 :人間七七四年[]:2015/05/04(月) 20:40:29.21 ID:X5u62ZnA - 一職支配の制度は、三好長慶が考案した統治体制で、
律令制の行政単位を否定し、摂津を上郡下郡に分けて、広域行政単位となし、 さらに重層的な土地権利を一括し、 荘園領主を否定する性格を持つもので、 松永久秀が摂津下郡一職支配を任されていた。 一方で国人や有力者との独自の主従関係を作り、 軍閥として盤踞する恐れがあるため、 久秀は永禄3年に大和へ転出させて、 在地支配の確立を阻害してる。 それを理解せずに全てを丸投げと誤認した信長は致命的失敗をやらかしており、 信長の一職支配は三好の考案した制度の単なる劣化パクり。 しかも荒木が主従関係を作り謀反するなど、 猿真似でやはり大失敗してるし、 本能寺の変後に、織田家を傀儡政権にする 家臣の軍閥化を完成させてしまった。 言わば、三好長慶の一職支配制度を内政丸投げと誤認理解し、 守護領国制との違いを信長が理解出来てなかったために、 結果的にリーダーシップなり、カリスマ性を持つ光秀らが軍閥化してるのに気付かずに、 信長への謀反が成立できる在地主従化を完成させてしまった。
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- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
550 :人間七七四年[]:2015/05/04(月) 20:41:38.05 ID:X5u62ZnA - 信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない 新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。 信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで 魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して 京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。
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- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
551 :人間七七四年[]:2015/05/04(月) 20:42:46.06 ID:X5u62ZnA - 小規模な範囲での興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して 多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。 ミクロレベルでの政策なら一定の成果が上がるが、マクロレベルでやった信長はアホ。 悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、 他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。 そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw 元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。 豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや 景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。 一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において 無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。 このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。 東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
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- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
552 :人間七七四年[]:2015/05/04(月) 20:44:04.03 ID:X5u62ZnA - 信長公記70種類以上をすべて閲覧研究した唯一の人で信長研究の第一人者の金子氏の信長評
「戦国大名は天下統一の為に競い合っていた」という戦国大名観は近年では否定されていますが、 信長だけは例外と見做されてきました。しかし著者が発見した書簡を初めとする史料から見えてくる 客観的な信長像は、他の戦国大名とさほど違ったものではありません。 有名な「天下布武」の印章も、信長が「天下を取る」ことを宣言したものではありません。 天下とは日本「全国」ではなく、京都を中心とした畿内のことに過ぎません。 「天下布武」とは、畿内の秩序維持を、足利将軍をサポートして自分が執り行うという意味なのです。 秀吉が行ったのはまさに「全国統一」でしたが、信長にはそういう意志はなかったのではないでしょうか。 しかし『天下布武』の構想も信長の言うなれば「脳内」のものに過ぎず、 「大義名分」として説得力のあるものではありません。信長が足利義昭になりかわって 事実上の将軍の職務を担っているからといって、 他大名には信長の「言い分」に従わなければならないいわれはないのです。 結局、信長は武力で「言い分」を認めさせるしかなくなります。 自称「天下をおおせつかっている」信長は、かくして諸大名との衝突を繰り返します。 例えば上杉氏とは当初、良好な関係にありましたが、 信長の版図が拡大し直接境を接するようになると両者は戦争になります。 そのような行動が後世の目で見ると、着々と諸勢力を征服して 「天下統一」へと邁進していたかのように見えたのです。 そもそも信長は、組織的な「政権」は作りませんでした。 征服した領土の経営も家臣に丸投げで、支配の方式に革新的な面はありません。 その点でも秀吉に比べ信長の「権力」は中途半端な中世的な段階に止まっていたと見做した方がよいのです。
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- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
553 :人間七七四年[]:2015/05/04(月) 20:44:53.77 ID:X5u62ZnA - 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは 各自に任されていた。 これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。 従って武篇道と戦果が問題となる。 池上裕子→武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。 よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し 兵種ごとに再編成することが可能。 これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。 黒田基樹 →信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。 大和一国支配者の興福寺 1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石 かんぜんにナメきってる報告っぷりw 秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされた。 信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの 石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。 しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。 北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり 軍役に関して記された改定着到之事を施行して指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、 それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる着到帳も氏政から正式に渡されてる。 また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。 織田にはこんな内治政策などまったくない。信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。 織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので 地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
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