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人間七七四年
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net

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徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
380 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 08:42:04.99 ID:FjWjNeuk
>>377
史料にケチつけて曲解するだけなら小学生でもできるだろ、馬鹿
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
386 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 09:41:12.91 ID:FjWjNeuk
>>381
だから何回も言わせるなよ
しっかり史料に書かれてる事なので。
それも家康や信雄の喧伝ではなく、毛利や、その家臣、また秀吉の陪臣の書状にきっちり書いてある。

http://iup.2ch-library.com/i/i1427298-1430488199.jpg
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい

http://iup.2ch-library.com/i/i1427304-1430488627.jpg
小早川隆景書状
池田紀伊守父子森勝三その他1万余越度候

http://iup.2ch-library.com/i/i1427308-1430489421.jpg

熊谷信直書状
羽柴方の衆は残らず落度候


はっきり言ってこれを無視して語ってる山本や堀はバカとしかいいようがない。
顕如日記は唯いつ秀吉の戦死者を3000人と書いてるが、顕如日記の長久手合戦の他の部分の記事なんて異常なほど出鱈目ばかり書いてるし。

・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
390 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 09:47:01.84 ID:FjWjNeuk
>>383
1584年通じて秀吉の目的は家康討伐
なので他の戦線に移動するのは秀吉が家康討伐が敵わくなった証左

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めなどと
一貫して秀吉は家康への総攻撃・決戦を志向してる
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394 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 09:48:59.92 ID:FjWjNeuk
>>393
>>388と>>390
の史料を100回見直しな

家康討伐を第一目的と書いてる
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399 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 09:52:25.66 ID:FjWjNeuk
>>397
俺は研究所も読んでるけどそんなものは全く書かれてなかったよ
書かれてるというなら証拠の史料か、論文を画像upして
何という論文の何ページに乗ってるか書いてくれ。
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402 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 09:54:01.13 ID:FjWjNeuk
>>398
意固地というか、史料を元に淡々と事実を書いてる側を
史料を根拠となる事例も史料も出さずにねちねちケチつけてるバカがいるから論破されてるだけでしょ
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407 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 09:57:43.63 ID:FjWjNeuk
>>404

いやいや論文なんて必要なくて史料に書かれてるからわかることでしょ

論文っつっても家康の誇大喧伝だと感情論だとわめいてるだけじゃん

そんなもん最初から価値がないっつの

http://iup.2ch-library.com/i/i1427298-1430488199.jpg
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい

http://iup.2ch-library.com/i/i1427304-1430488627.jpg
小早川隆景書状
池田紀伊守父子森勝三その他1万余越度候

http://iup.2ch-library.com/i/i1427308-1430489421.jpg

熊谷信直書状
羽柴方の衆は残らず落度候


はっきり言ってこれを無視して語ってる山本や堀はバカとしかいいようがない。
顕如日記は唯いつ秀吉の戦死者を3000人と書いてるが、顕如日記の長久手合戦の他の部分の記事なんて異常なほど出鱈目ばかり書いてるし。

・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
413 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:01:01.79 ID:FjWjNeuk
>>409
まずな、研究や論文といってもきっちりした論拠や史料がなければただの妄想なわけ。

研究や論文の基礎は史料にどう書かれてあるか、だから。
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
423 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:05:53.48 ID:FjWjNeuk
>>420
でも実際に史料見ると、長久手前と長久手後で相当戦況変わってるからな
長久手前は信雄は寝返りの連鎖で領国崩壊してたけど
長久手後は次々に拠点奪回するし、秀吉も持久戦作戦にかわってるし
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
427 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:08:10.98 ID:FjWjNeuk
>>425
伊勢浜田城
尾張長久保城
尾張前田城
尾張下市場城
尾張蟹江城
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432 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:15:30.25 ID:FjWjNeuk
>>430
伊勢浜田城や尾張長久保城は3月時点でさっさと秀吉に寝返った城だぞ
尾張下市場城や前田城、蟹江城は滝川が調略で寝返らせた物。
当時大垣にいた秀吉から見て半日ほどで行軍可能な距離にもかかわらず信雄にあっさり奪回されてるんだぞ
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434 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:17:32.71 ID:FjWjNeuk
>>430
伊勢浜田城や長久保城は長久手合戦の前に寝返った城だが
いつ秀吉が落としたのか聞きたい。
史料を用いて詳しく話してくれ。
俺が愛知県史と長久手町史を見た限りそんなものはなかったけど
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438 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:23:11.57 ID:FjWjNeuk
>>437
そもそもそれらの城は最初から秀吉の息がかかった信雄の見せかけだけの家臣がこもってただけだし
実質最初から秀吉の物みたいなものだからな
尾張ですら3月頃でも次々に寝返りがあったし、
逆に寝返り以外では秀吉はほとんど城落とせてないし
逆に信雄は寝返りばかりの状況下でも秀吉方拠点落としてるし
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443 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:41:59.90 ID:FjWjNeuk
>>441-442
いやいや秀吉が調略や寝返りでとったのは浜田、前田、蟹江、長久保などの城だぞ
調略や寝返りで秀吉がとった城を信雄が実力で奪回したというだけだよ。
実力とは関係ない攻略を、実力で完結させたのが信雄
ちなみに秀吉は調略、寝返り以外だとほとんどどこも落とせてないからな
松ノ木城、戸木城、河波城、東駒野城とか見事に撃退されてるし
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451 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 10:50:10.93 ID:FjWjNeuk
>>445
九鬼や蒲生がどこを落としたの?
小和田哲夫が伊勢のほとんどを攻略したとか書いてたけど、俺が長久手町史や愛知県史などの史料を全て読んだ限り
どこをいつ落としたとかわかる史料は全くなかったので詳しく頼む
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460 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 14:13:24.47 ID:FjWjNeuk
久保田昌希 「松平家忠日記と戦国社会」

P219〜

天正12年3月に徳川氏によって発令された徳政令について、これまでは小牧長久手合戦が徳政実施の直接要因と考えられてきた。
しかし、これまではなぜ3月にこれが実施されたのか考慮されてなかった。
3月は年の田畑の作付時期である。領主は耕作実施のために勧農に努める事が、求められていた事が知られる。
この領主の勧農は村請の展開により、村落が日常的な勧農に努めるが、災害・飢饉などの非常時においては、領主が勧農に努める事が要請された。
この時期に発令された戦国大名による徳政令発令も然りである。
例えば則竹雄一氏は、永禄3年、3月に発令された相模北条氏の徳政令を「勧農の徳政」と位置づける。
また、越後上杉氏が永禄4年3月11日に前年の水害を受け、越後上田庄、妻有、藪神に発令した徳政令も、この飢饉・災害などの非常時における領主の勧農責務を受けての物であろう。
これを考えあわせるならば、この徳政令発令の背景にも、なんらかの自然災害の影響が想定できよう。
そこで徳政令発令直前の家忠日記天正11年1月〜天正12年2月における主要災害記事をまとめた。

天正11年
正月26日 夜大雪ふる、2・3尺
閏正月25日 夜地震候
閏正月26日 夜地震候
3月3日 地震3度する
3月4日 夜地震2度
5月13日 酉刻より雨ゆり出候て、大雨寅刻ふり候、
5月14日 雨降、所々大水出候、田地そんし候、浜松へ人をつかわし候
6月26日 巳刻に地震候、中島へこし候
7月20日 大雨降、50年以来大水に候、御祝言も延候
7月23日 雨降、申酉間に地震候、夜大雨降、大水出候、20日の水よりひろ高く候
霜月18日 雨降、大南風吹候、家そんし候、大風也
天正12年2月23日  大雨降、水出候

大雪、大雨、台風の記載が確認できる。特に注目したいのが天正11年5月13日〜14日と同7月20日〜24日の大雨・大洪水である。
この時の水害は三河岡崎流溪院に伝わる年代記にも「大洪水、この年2・3度降、人皆死す」と記録されるほど大規模なものである。
天正11年5月13日〜14日の大雨・大洪水は13日の酉刻より降り始めた雨が14日寅刻には大雨となり降り続けた結果
「大水出候、田地そんし候」という大洪水とそれにより田地の流損を招き家忠は本拠浜松へ使者を遣わし、被害状況を確認させている。
そしてこれを上回る被害を出したのが7月20日から24日の大雨と大洪水である。
24日条によると中島・永良の堤3、4箇所が決壊し「田地一円不残そんし候、家ひしけ候」という
田地・家屋の流損を招き、結果「無所務」という収穫不能の状況にまで至っている。
8月3日条によると家康より「縦御普請候共御赦免」、つまり「御普請役」の免除を得て、大雨・大洪水の被害からの復興に努めるように処置をされた事がわかる。

これらの記載よりこの時の水害、特に家忠が「50年以来」と記す7月の相次ぐ水害による被害の甚大さをうかがえよう。
この大雨は三河だけではなく、甲斐、その後は関東地域でも被害をもたらし、それは同年8月8日に相模北条氏に宛てられた古河足利家奉行人練書状写によると「20カ年以来」とされる古河近辺をはじめ関宿、高柳、柏戸などの堤大決壊に伴う大洪水による甚大な被害を確認できる。、

そしてこの大雨、洪水による収穫不能という再生産活動の危機的状況が翌年春に対処を求める徳政状況の発生へとつながったのであろう。
以上の検討を踏まえるならば、徳政令発令の背景に、この前年の三河・遠江両国における大雨・大洪水による甚大な被害、とりわけ収穫不能という再生産活動の危機的事態が、より直接的な要因として考えられる。
つまり、この前年の三河・遠江両国における大雨・洪水による地域の再生産活動の危機的事態の展開が、「国家」存立への支障となり、徳政状況を発生させ、この事態への領主の勧農責務として、同地域に徳政令を発令したと位置づける事ができよう。
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466 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 14:54:07.58 ID:FjWjNeuk
でも徳川時代の講談ですら家康アンチの物ばっかりじゃん
家康がクソ漏らしたとか、真田や島津に殺されかけたとか。
家康を持ち上げてる講談なんてあるかね?
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468 :人間七七四年[sage]:2015/05/04(月) 14:56:47.73 ID:FjWjNeuk
そういえば国家安康の4字の家康がケチつけて豊臣を滅ぼすいいがかりにしたってのも江戸末期の講談だろ
同時代史料だと家康はむしろ和平派だったはず


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