トップページ > 戦国時代 > 2015年05月01日 > CWyUfIid

書き込み順位&時間帯一覧

7 位/112 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000000000000000003003



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
人間七七四年
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net

書き込みレス一覧

徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
282 :人間七七四年[sage]:2015/05/01(金) 21:14:24.91 ID:CWyUfIid
>>278
秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは 明らかで
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
285 :人間七七四年[sage]:2015/05/01(金) 21:16:48.05 ID:CWyUfIid
>>283
いや、開戦と同時に秀吉に寝返ったから秀吉領だよ。
寝返った家臣たちは秀吉に人質を取られてたから到底信雄の家臣とは言えなかったし。

それと終戦条件で割譲されたのは開戦と同時に秀吉に寝返った、中伊勢以南の領域だけだぞ
秀吉の領国がそのまま秀吉領になるという、当たり前の事が起きただけだよ。
徳川史観と豊臣史観、どちらの影響力が強い? [転載禁止]©2ch.net
287 :人間七七四年[sage]:2015/05/01(金) 21:18:40.81 ID:CWyUfIid
>>284
秀吉が小牧長久手で10000人の戦死者を出したのは
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と
書かれてて自明の事なんだが
公家日記でも顕如日記を除き1万で共通してるし
小牧長久手時点では秀吉に賞賛的な記事が多い、イエズス会年報や日本史でも1万人戦死したと書いてる


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。