- なぜ、徳川家康は嫌われるのか? [転載禁止]©2ch.net
156 :人間七七四年[sage]:2015/04/21(火) 22:21:17.92 ID:jMGg9zb6 - 秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる 3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」 4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。 龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し 家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。 桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし 小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる 長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も 『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状) 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛) と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。 5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。 この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、 この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが) 秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
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