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人間七七四年
武田信玄は過大評価されすぎ part4
豊臣秀頼と劉禅って、どっちが無能なの?
【天下布武】織田信長総合スレ【吉法師】

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武田信玄は過大評価されすぎ part4
427 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:02:38.63 ID:hrNfp6QW
信玄西上でたった1万しか動員出来なかった織田w
長篠の戦いで家康5000と合わせて3万しか動員出来なかった織田。
越前一向一揆討伐で北陸の織田方国人を合流させて限界3万動員するも維持できる兵糧が無いので越前で大量虐殺して物資略奪大会w
隣国信濃出兵で食料が足りるように人数調整した織田。
しかも武田滅亡を確認したら速攻で軍を解いて急いで帰ろうとするも諏訪で大量に栄養失調で兵が寒気に耐える熱量が体に無く死にまくる織田www
現地調達なのだから、その駐留地から離れたら途端に兵糧不足になるのが織田。
それを解消するには、国主なしになった越前で補給を兼ねてやった
越前府内は見渡す限り生きている者は見当たらないと信長が喜んだ超大虐殺による世紀の大略奪大会。
謙信には兵糧がなくて勝頼の追撃ができない理由を兵糧が尽きたからと言っていたが、
その解決策が釜茹、磔などで越前を無人にしての食料財産没収。
秀吉のような規格外の圧倒的な戦力を一戦線に集中する位攻め戦略が最後まで使えなかった信長www
よって信長が大敗した紀伊一揆共和国を、位攻めでわずか一ヶ月かからず秀吉は制圧し、
そのまま四国まで一気に制圧。
秀吉自身が紀伊にも四国にも行く必要がまるでない楽勝ぶりだったから、
手持ち無沙汰な秀吉自身は越中へ向かう余裕っぷり。
信長があんだけ苦労したのは兵站概念欠如し位攻めが使えなかったからに他ならない。
だから信長は天下など統一出来ない。
そもそも国力を正当に活かせられない張り子の虎が織田。
兵站概念がない織田は総力を集めた決戦用で一戦線に集中できる兵力上限3万が限界。
織田は一国亡国平均政策のもとに、
軍を各地に駐屯させて恐喝略奪放火虐殺をして兵を養うため、
各地に駐屯するしか維持することが出来ない。
南北朝や源平での数十万動員なんてのは軍記話であって一次史料では存在しない誇張表現にすぎない。
略奪軍は一次的に兵力増大は可能だがすぐに枯渇し長続きしないため現実的じゃない。
だから知将名将はそういうダメ戦略を用いない。
日本と大陸では比較対象にならない。
中国のような兵糧を集積した施設や、
富が集中した長期籠城に対応した城郭都市からの補給が可能な地域では長く兵力を維持し養うことが可能。
しかし、日本には城郭都市は無いし、兵糧集積地も無いし、
通商キャラバン商隊との合流や、
遊牧民族のような燃やし奪い移動する廃都遺棄前提の略奪移動型のような馬による大移動型軍隊ではない。
まあ信長のやっていたことは遊牧民族のような行為であったのは事実だが、
それを逃げることが出来ない土地に依存していた農民相手にやったら喰えなくなった領民に支えられる領主も含めて、
一揆謀反だらけになるだけで、
まともな統治は行えないから撫で切り根絶政策に陥り、次から次へと敵が増えるだけ。
結局、信長は石山本願寺を支えていた、
高野山、粉河、根来、雑賀などの4大宗教団体で組織構成された
フロイス曰く紀伊共和国に敗北し謀反死した。
しかし兵站概念を持つ秀吉は規格外の大兵力を投入した位攻め戦略で彼らを速攻で降伏に追い込み、
彼らに船を出させて四国すら瞬く間に制圧してみせた。
家康は彼ら同盟者を見捨てて震えあがりビビっていた。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
428 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:08:03.95 ID:hrNfp6QW
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

実は信長とは違って家康は石山本願寺とは敵対していない事実。
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
429 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:12:27.75 ID:hrNfp6QW
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターンは毎回下記のように家康攻略が目的と話を強制的に変更させる。
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw


まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
430 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:18:10.43 ID:hrNfp6QW
天皇家は武田を信任してるからね。
後奈良天皇も天文22年8/20に宸筆の般若心経で
天下泰平を諏訪大社で祈願して晴信の戦勝祈願もしてるし。

悪党家康信長を討つ大義名分を高らかに謳ってるよね。
特に朝倉や比叡山との勅命和睦無視して
比叡山焼き討ちし、権門や寺社らを侮り
税を好き放題にかけたり、略奪したりと京内外でやりたい放題に怒り
正義と秩序を取り戻す宣言をする信玄。
これ義昭の取次ぎ宛なのに、天皇が手に入れて自ら筆写してんだよね。
天皇が自ら行動するのは、ほかには古今和歌集絡みで細川幽斎助命に動いた後陽成天皇くらいか。

かなり大雑把な要約だね。原文はすげー長文。
特に>>朝倉や比叡山との勅命和睦無視のところで
信玄は5つの大罪を挙げて信長を非難してる。

信玄が信長を討った後の政治についてははっきりと述べてるだろ。

元亀4年1/11信玄→義昭側近上野秀政宛て

家康押妨神社仏閣諸仏物(三河一向宗弾圧のこと)
害民事利欲心、恣振逆威条、前代未聞之次第也
然而信玄起一挙之義兵、靡大軍令発向処
と信玄は民を救うことを誓って大義の軍を出してるじゃん。

さらに所詮誅伐信長・家康以下逆党、静謐天下旨趣になると宣言し
抑信長企逆乱、山上山下消亡(延暦寺)、諸仏物落取、已厳私用、
極栄花諸人閉口、頻申眉仕立、偏仏法王法破滅、天魔破旬変化也、
合昇殿登高官、奉軽尊体之咎、無所遁其罪、
一、不弁己叵(己の立場を弁えることができない)、夫向月卿雲客、
猥令放言、侮権門、無礼之咎、不浅其罪
ニ、洛中洛外徘徊、相懸徳分之課役、押領砂金財宝咎
三、累年之錯乱以来、或成敵或成味方族有之、然而一度令赦免、
彼高槻今中城(高槻市今城町?)高宮以下士、忽行死罪、併同籠鳥何以為実、
何以為頼哉、誰不悪之其罪、
四、去永禄十三年、至東坂本、義景与信長互連魚麟・鶴翼之陣、決雌雄之刻、
掛忝蒙 勅命、同被成
御下知之上、捧数通之起請文令和睦、自他下国訖、然而翌年元亀二年九月、
令上洛、坊舎仏閣成廃燼、非背 勅載(裁?)耳、御下知云、天罰也、旁以悪逆無道之其罪
五、此五逆者、千古未聞、況於末代哉、若彼逆徒等、被宥置者、讒巨乱国、
窮鼠却而噛猫、還而滅怨敵、欲傾国有企、此条隠(雖?)未入上聞、諸国普所知也、
行及猶予、可起可成大乱元歟、早信長・家康以下之凶徒等、可致誅戮之旨
などと信長の罪を5つ挙げて糾弾し、
百民開愁眉処安寧、苟信玄以不背(肖?)之身、尽正儀、運策於帷幄之内、
静四海逆浪、台嶺之伽藍・七社霊鑑遂建立、并顕蜜(密?)兼学成霊地、
現世安民之政、燿日月余光、可致天下静謐之功、宜被達上聞、誠惶誠恐謹言
と信長を討った後の政策を掲げている。
天皇がこの文章を読んで感激のあまり筆記して保存していたため
写しが真言宗醍醐寺理性院文書として残っていた。
信長のように、自分に従わない者はすべて敵として禽獣のように
アチコチで戦争と貧困を輸出するキチガイと違って、信玄は和を以って貴しと成すを掲げ
政治的解決で民を救い天下を安定させると述べている。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
431 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:38:46.24 ID:hrNfp6QW
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。

天正4年の信玄葬儀記録である天正玄公仏事法語によれば
天正元年2/10に野田城を攻略して北上した信玄だったが
4/10に信玄が突然、軍営中に俄然斃れたりと書いていて4/12に死んだと書いてあり
その死は急だったようだ。雪解けするまで待った上でやっと東美濃へ侵攻する寸前に死去だから無念だったろう。
武田は宗教改革もやってんだよな。富士山本宮浅間大社の宮司の富士氏は富士兵部少輔や蔵人と呼ばれ大宮城主で
有力な武将だったはずが兵神分離政策によって武力のない神職である大宮司になっていってる。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
432 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:41:49.83 ID:hrNfp6QW
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。

父が准三宮関白二条晴良だった義演(足利義昭の猶子)がいた醍醐寺に天皇の写が残される。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛について
遠藤が執筆した論文によれば差出人の下に花押までしっかり書かれている書状なので、
一度、正規に発給されたが、その後に見直し 法性院の後に僧正が挿入されたり、重ね書きがあるので、
複数の訂正箇所が見つかり改めて発給された方が使者の四辻大納言李遠に渡され
こちらの書状は控えとして保管になったと書いている。
そしてこの書状の存在を反信長勢力による信玄上洛戦を促す目的のものと断じている。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
433 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 18:44:37.67 ID:hrNfp6QW
細川藤孝の従兄弟で吉田神社当主の吉田兼見 誠仁親王の妃と姉妹の勧修寺晴豊 太政大臣の近衛前久はグル
2/14の浅間山噴火で甲斐崩壊を知ったのか、武田滅亡阻止のために信長暗殺を策謀。
2/25 竹内殿(信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕で信玄を官軍に、信長を朝敵にした人)
による天神講(3/2夜執行?)に勧修寺晴豊が出席(延暦寺の大ボスと勧修寺の秘密会談。信長への叛意相談か)
誠仁の妻の兄である勧修寺晴豊は祖父の尹豊・子の光豊とともに
元亀3年末に信玄を官軍に、信長を朝敵にする活動をした
比叡山延暦寺の大ボス166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕と
信長が武田征伐に集中してるドサクサに密談しているのであったw

信玄を尊敬していたからね快川。信玄の供養もやってる。
京で晒し頸にされた勝頼親子の頸を弔ったのも快川の師弟であった南化だしな。
土岐氏一門最大の天才として光秀と双璧を成していたとも言われ
本能寺の変を経た快川一周忌に南化が「過去の大通智勝仏(快川) 分身は今日扶桑(日本)に現れた」
などと書いていて快川がひそかに生きているとも取れる文章を書いている。
本能寺の変には朝廷と快川と光秀の共謀があった可能性が強い。

天正9年9/6に天皇が快川に国師号を下賜した時、 綸旨に「快川和尚は天下にその名が知れ渡っていて
朕は遥かに和尚の道風を聞き及んで感動しているので特別に大通智勝国師の号を授ける」と書かれ、
恵林寺の公式には快川と関係が深い武田氏が信長と敵対していたのに
この時期にこのような行為をする天皇の強い信長への反骨精神を感じたと評しているし
天正9年2/28に皇居で馬ぞろいを信長が行った時に、宣教師ヴァリニァーノに対して
信長が「予が国王であり内裏であり天皇に価値はないので会う必要はない」
などと答えているのを知った天皇の武田氏への救援の意味がこめられているとも言う。

また天正6年冬に大垣にいた南化が安土を訪問して信長から話を聞かされており、
南化が7年8/23付けで出した書状に甲濃和睦の文字が登場し
信長→稲葉一鉄→南化→快川→勝頼への窓口があったようで
天正9年11月以前に織田勝長返還という
甲江同盟の交渉への布石を信長が依頼していたとされ
信長は武田氏が織田領へ攻めてこないように愛撫活動をしていた。
しかし浅間山大噴火とともに信長による火事場泥棒が開始され、
この裏切り行為に激怒した快川が信長への抗議を込めて信忠に屈せず火の中に消えた。
美濃で強い影響力を持っていた快川は
尾張の半分を手に入れた斉藤義龍と対立し、義龍を突然死に追込み信長を助け、
信玄が信長のために東美濃を譲渡した際に尽力し
その挙句に手のひら返しされた信長を暗殺したのが快川和尚。
まさに火に囲まれ死せる快川、生きる信長を焼死させたのである。
武田信玄は過大評価されすぎ part4
435 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 19:34:52.47 ID:hrNfp6QW
5/13に信玄からの起請文への返書を義昭は出しているなど義昭は信玄の死を知らない。
(勝頼が信玄の名で家督交代を報せており、信玄を御隠居様と書いている)
7/13付けで信長が毛利輝元へ宛て信玄死去確定を伝えている。

義昭は毛利から兵糧をもらい槇島城で籠城するも信玄死去確定で毛利・本願寺が支援を打ち切り義昭降伏

7月3日、義昭は信長との講和を破棄し宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害槇島城で挙兵。
7月18日に織田軍がやってくると義昭は戦わず降伏。山城近江若狭大和摂津の将軍奉公衆もこれに伴い降伏。


領国支配の深化の証明でもある家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないのが織田軍。支配実態を表す書状皆無。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。 軍の整備による質の向上も図られていない。
一次史料をみる限り織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。よって国力の単純比較は成立しない。

公記で織田3万と記述されてるのは下記の2回だけ。
長篠の戦いで織田徳川双方を合わせた連合軍が3万と
長篠の戦い後に一向衆に奪われた越前に織田が攻め入った時の記述において、
かき集めた牢人衆や朝倉旧臣や浅井旧臣らも率いてた上でやっと3万に達してる。


言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
そして柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と並び称された
坂井政尚と森可成が討死しただけでなく織田信治・蒲生定秀の弟の青地茂綱らが討ち取られる志賀の陣で
(青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態)
信長は屈服するなど次第に追い詰められていく織田の兵力が激減し朝倉浅井3万の前に
織田は1万まで減少して志賀の陣で土下座
(三河物語にも信長が朝倉に負け宣言をして天下は朝倉殿が取りたまえ。私は2度と天下を望まないと発言)

尾張伊勢長島一向一揆衆には朝倉滅亡前の段階で林道政以外にも
織田信興・氏家卜全・蜂須賀正勝の弟が殺され柴田勝家も負傷。
そんな状態で、ついに金も兵糧も鉄砲も足らず三条河原で軍列を整え
知恩院に陣した総兵力織田軍たった1万だけ(年代記抄節)しか動員できず
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)
朝倉軍は浅井の援軍として25000(朝倉始末記)もしくは2万(信長公記)を動員しているわけだ。
豊臣秀頼と劉禅って、どっちが無能なの?
961 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 19:53:29.43 ID:hrNfp6QW
だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとか馬鹿主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。


アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。
【天下布武】織田信長総合スレ【吉法師】
500 :人間七七四年[]:2015/04/21(火) 20:14:24.87 ID:hrNfp6QW
無理やり西欧史と日本史の類似性をコリエイトするコーエーの販促で
信長天才マンセーで人気になったからね。
戦前なんて政宗や秀吉の映画がたくさん作られたが
大虐殺暴君信長なんて全く人気無かった。
信長の負の部分を隠蔽して人気出したのがコーエー史観。


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