- 信長・秀吉・家康 三英傑について語ろう
176 :人間七七四年[sage]:2015/03/26(木) 23:36:47.89 ID:VrjaY9uj - >>175
信雄も信孝も2人でいがみあってたというのが大きいだろうね やはり信長を殺した明智を秀吉が討った事が、清州会議後での秀吉優位を確定的にさせてると思う 丹羽だけではなく蒲生・堀・信張・蜂谷・森・池田や信包とかいつの間にか秀吉軍団に編成されてるし 結局だが、信長に恩をうけた子飼い系や譜代系、あるいは一門衆や娘婿、乳兄弟ら、信長に近しい人間からしたら 主君を殺した明智を討ったという事実から、羽柴の元へ参ずる、人質を出してでも配下に入るという事を選ばせたんだろう。 信長の一門や、娘婿、譜代集、子飼い衆らからすれば、信長を殺した人間を討ったという事は、織田家に仕える身という観点からも、 信長に仕えるという観点からも恩人なわけだし。 それで秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測り 秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、 若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行ってる 天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として 10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて 細川とは血判状交わして臣従関係結んでる 結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成 (大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた) 信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
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