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547 :人間七七四年[]:2015/03/11(水) 04:26:16.11 ID:RRi7Q4HR - 最上光忠
天正8(1580)年頃、山形の最上義光は志村九郎(志村光安)に出羽打ちの鎗、青鷹、名馬を持たせ徳川家康を頼り安土の織田信長に正式な「出羽守」を認めて貰える様謁見を願い出た 志村光安の弁舌をもって織田信長は「地方の事には疎い事もあり、白鳥某が出羽の有力者と勘違いをしておった 最上『出羽守』義光殿にはすまぬ事をした」と 志村光安に多くの土産物を持たせた 義光(´・ω・`)「それでこれだけたくさんの宝物を貰って来たの?」 氏家守棟「信長公から『出羽守』の正当性を認める書状!これで当初の目的は果たしましたが、色々と光安殿は持ち帰りましたな …櫃には兜と鎧…絹に巻物 目録では他に刀…おお!これは!」 光安が土産として信長から義光宛てに安土から持ち帰ったものの中には信長愛用の「光忠」の太刀があった この光忠は元は足利義輝の物であったが、信長が頂き、最上義光の手に渡った 最上家の宝としてこの太刀には「最上光忠」の名が当てられた 「山形の昔話」 …しかしこの話には続きがあり、 義光の手にあった光忠は訳あって豊臣秀吉に献上され、その子秀頼から徳川家康の手に渡り、秀忠を経て江戸の初期に復た最上家へと戻った※ その後しばらく行方がわからなくなっていたが、1952年に文化庁の重要文化財証明認定時に所持者は最上家の家老職を先祖にもつ人物が所持者になっていたが、 2014年の文化庁の重文確認では現・所持者と合わせ所在不明となってしまっている ※秀忠から仲の良かった家親に渡されたとも、福島正則屋敷収公の手柄として家信(義俊)にくだされたとも、別件で下賜されたとも説がある
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548 :人間七七四年[sage]:2015/03/11(水) 05:08:41.13 ID:RRi7Q4HR - 鬼切丸巷話
その一 1561年、最上義光は父義守の湯治(鷹狩とも)の供として高湯(蔵王)の上湯付近の湯元屋※に滞在していた その夜山賊の襲撃があり、少年義光は二人の山賊を倒し、顔に複数の傷を負いながらも賊の主魁を討ち取った この息子の手柄に感心した義守は17才の時に楢下(上山)のいくさで最上の当主として頂いた伝家の宝刀「笹切」を義光にくだされた この「笹切」の別名は「鬼切(鬼切丸)」とも伝わる 「羽陽軍記」「奥羽永慶軍記」 ※現在ある湯元屋と経営者に繋がりがあるかは不明 その二 「鬼切丸」は新田義貞の佩刀の一振だったが、斯波家を経て最上家に伝わり、義光の佩刀にもなった しかし八ツ沼城攻めで端武者の様な行いをその主にさせたのは、深い業(因縁)※というものだろうか 「山形の昔話」 ※新田義貞の戦死の顛末は『太平記』に詳しく叙述されているが、義貞は藤島城攻めに向かっていたところを、斯波軍と遭遇し 敵に囲まれ結果として討ち取られた 『太平記』では義貞の行動は軽率で「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、あたら無駄に命を落とした」とその死を「犬死」と評している 新田義貞の首級を挙げたのは 八ツ沼攻めで最上義光の猪武者振りを号泣しながら諌めた氏家守棟の先祖(氏家重国)
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549 :人間七七四年[sage]:2015/03/11(水) 15:22:59.89 ID:RRi7Q4HR - 行方不明の刀剣や絵画
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/2015012101.pdf
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