- 果たして今川幕府創立は可能だったか?
660 :人間七七四年[sage]:2015/02/25(水) 00:25:40.03 ID:gDWRS84l - >>649
> 恐らく今川は浅井朝倉を敵に回し、六角・京極と手を結ぶことになる 違うでしょ 当時の斎藤義龍は、北近江侵攻を企てて六角承禎と同盟していた 今川が美濃に攻め込むなら、同盟を組む相手は信長と同じく浅井長政になる そして、浅井長政と同盟を組むなら、必然的に山城への道は北近江・水路 ルートではなく、南近江の陸路ルートを使うことになるので、六角と戦うことになる でも、別に通り道の大名を全て滅ぼす必要は無く、友好的な同盟、または 従属的な同盟を結ぶことも可能だろう 大内義興だって、本領の周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前と山城の間にある 諸大名を滅ぼして上洛したわけじゃない 尾張・美濃・伊勢しか所有していなかった信長と違って、今川は名門だし、 駿河・遠江・三河・尾張・伊勢の5か国という圧倒的なバックボーンがある (伊勢は小豪族ばっかりなので、尾張を獲れば必然的に獲れる) 六角承禎も、信長相手と違って勝てる見込みが全くないので、敢えて事を 構えるよりは、同盟を結ぶ可能性が高い 義元は、信長と違って養子に出せる子・親族が少ないので、松平元康や 北条氏規の場合のように、同盟相手から人質を求めるだろう 六角承禎には、観音寺騒動を起こして家督を失った義治と、暫定当主の 次男・義定がいるので、どちらかを人質に出して、今川に従うんじゃないかな
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- 果たして今川幕府創立は可能だったか?
663 :人間七七四年[sage]:2015/02/25(水) 01:13:55.21 ID:gDWRS84l - >>660つづき
信長は 1555 尾張下4郡の守護代・織田信友から清洲城を奪う 1557 弟の織田信行を謀殺 1559 尾張上4郡の守護代・織田信賢を追放し、尾張統一 1560 桶狭間の戦い 1561 斎藤義龍、死去 1564 信長、浅井長政と同盟 斎藤龍興、竹中重治・安藤守就に稲葉山城を奪われる 1565 足利義輝が殺害される 1567 北伊勢に侵攻するとともに、斎藤龍興を美濃から追い出す 1568 足利義昭を奉じて上洛 という道のり 信長が尾張一国の支配者になったのは、桶狭間前年の1559年に過ぎず、それまでは 斯波守護家、清洲織田大和守家、岩倉織田伊勢守家、織田弾正忠家、佐久間氏、 水野氏、山口氏、久松氏などが尾張に割拠していた だから、今川義元が1560年5月に桶狭間に勝利した場合、信長の統一尾張に慣れて いない=忠誠心をもっていない尾張の国人たちは、今川氏の支配に抵抗することなく たやすく平定されるだろう であれば、1561年時点で尾張しか持っていなかった信長と違い、駿・遠・三・尾の 今川氏の美濃攻略と上洛スピードは数年早かったはずだ 1564年の竹中半兵衛の稲葉山奪取に見られるように、1561年の義龍死去以降、 斎藤氏の弱体化は顕著なので、1564年ぐらいには美濃を占領できた可能性が高い ・・・であれば、今川氏の上洛は足利義輝が生前中に実現したかもしれない そうなった場合に、義元は義輝を圧迫して征夷大将軍を目指したのか、管領と 駿・遠・三・尾・美・伊の6ケ国守護、それに義輝に継ぐ従四位参議の位をもらって 貴族趣味を満足させるに留まったのだろうか?
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- 果たして今川幕府創立は可能だったか?
664 :人間七七四年[sage]:2015/02/25(水) 01:18:01.02 ID:gDWRS84l - >>661
別に可能性が高い話をしただけ しょせんイフだから、君が言うように「斎藤・六角と組んで浅井・朝倉と戦う」もあれば、 「浅井も六角も両方滅ぼす」なんて殲滅ルートも可能性はあるでしょう でも、「遠交近攻」の常道から考えて、尾張の隣国の美濃・斎藤または南近江・六角と 組んで、わざわざその2者の向こうの北近江の浅井と戦うなんて、戦略的に可能性が 低すぎるよ 信長の「浅井と組んで、斎藤・六角と戦う」という侵攻ルートは、別に信長独特の発想 じゃなくて、尾張から西を見た場合に至極常識的な戦略だと思う
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666 :人間七七四年[sage]:2015/02/25(水) 06:39:11.61 ID:gDWRS84l - >>665
信長と同じ軍事行動でも、将軍を目指さない大内氏のような上洛パターンというのもある
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