トップページ > 戦国時代 > 2015年02月13日 > j/b2UuRK

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人間七七四年
戦国ちょっと悪い話41 [転載禁止]©2ch.net
戦国時代の日本の軍事力

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戦国ちょっと悪い話41 [転載禁止]©2ch.net
407 :人間七七四年[sage]:2015/02/13(金) 18:25:49.33 ID:j/b2UuRK
太閤様(豊臣秀吉)の時代、蒲生飛騨守氏郷に、会津百万石が下された。彼はその前には、伊勢の津で
12万石を領していた。

この氏郷が死去すると、跡目は子息の藤三郎秀行が継いだ。そういった所で、家中が2つに割れた。
それぞ亘八郎右衛門方、蒲生四郎兵衛(郷安)方と呼ばれ、両派による大きな紛争が起こった。

主君である蒲生秀行は、亘八郎右衛門方に心入れしていた。並びに秀行の舅である徳川家康も同様であった。
蒲生四郎兵衛に対しては、石田治部少輔(三成)が取り持ちをしていた。

この騒動は蒲生家内部では処理できず、ついに秀吉の上聞に達し、亘八郎右衛門に切腹が仰せ付けられた。
蒲生四郎兵衛はこの公事に勝利したものの、彼は「五畿内に召し置いてはならない」と、秀吉より
仰せ付けられたため、肥後に下り、加藤主計頭清正の所に召し置かれた。

(細川忠興軍功記)

以上、蒲生騒動についての記事である。
戦国時代の日本の軍事力
157 :人間七七四年[sage]:2015/02/13(金) 20:35:06.78 ID:j/b2UuRK
>>156
陣構えが乱れないと騎馬突撃が出来ない程度には
戦国時代の日本の軍事力
159 :人間七七四年[sage]:2015/02/13(金) 21:02:19.90 ID:j/b2UuRK
>>158
甲斐国に関しては、江戸初期の記録では甲斐で飼育されていた馬の頭数は長篠の軍勢全員を騎馬にしてもお釣りが来るほどなので、
そのうち数%が軍馬と成ったと考えても、充分数百規模の騎馬部隊が編成できるポテンシャルがある。
戦国時代の日本の軍事力
162 :人間七七四年[sage]:2015/02/13(金) 23:19:14.93 ID:j/b2UuRK
まあ北条で騎馬部隊が編成されていたのなら、馬の産地である甲斐でそれが編成されない理由は見当たらないからなあ。
雑兵物語などの、当国では騎馬で突撃する戦法が恒常的に行われていたという記述、また東国ではすでに兵種別に部隊が編成されていた
事実も含めて考えれば、甲斐武田家で騎馬部隊の編成が行われていたと考えても特に不自然ではない。


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