- 長篠・設楽原合戦の真実 part7 [転載禁止]©2ch.net
224 :212[]:2015/02/02(月) 01:17:48.33 ID:7k6Z3Si1 - >>214
本当に不可解なんだよね。 勝頼としては裏切り者の奥平の成敗を行う必要があり、その後詰に来るであろう徳川軍、そして徳川と同盟する織田軍の援兵。 徳川の総兵力は通常8千、無理しても1万程度で織田の援兵も信玄の三方が原に比べて織田の状況が好転していたとしてもやる気ない5千から1万程度と考えて、 織田徳川連合軍の総兵力を1万5千から2万程度と見積もっていた場合、1万7千の兵力は妥当で勝算があったんだろうね。 でも誤算はわざわざ信長自ら出陣してきたことかな? このことは、桶狭間の今川義元本人が出陣してきたことに似てるよね? (桶狭間の合戦は、今川主導の合戦ではなくて織田が今川方の品野城を攻めて尾張からの今川勢力の一掃が目的、ただ義元本人が出陣してきて今川の兵力が予想以上に多かった) 当時42歳で厳しい合戦を経験してきた信長が32歳の血気盛んな勝頼を手玉に取ったのかな? やっぱり勝頼としては、 成長し続ける織田。 糞詰まり状態の自軍。 自らは甲斐と諏訪のサラブレッド気取りでも、諏訪に養子に行った身分で6男の後見人という立場で甲斐と諏訪の対立を収めきれなかった。 ことから無理しても意地を通したかったのかな? その結果が信玄に忠誠を誓った重臣の死であり、一門衆の不戦だったのかな? とか色々妄想が膨らむよね? とにかく余裕のある方は現地を訪れてみることをお勧めします。 長篠城の目の前に陣取る武田軍。 長篠城本丸と落ちたとされる兵糧庫の近さ。 鳥居強右衛門の脱出場所と狼煙を上げた状況、そして援軍が来ることを場内に伝えた場所と場内の近さ、そして処刑地・・・ 設楽原に築かれた織田徳川連合軍の陣城。 何故か連吾川の武田側にある丸山。(この山を確保するためは織田の佐久間隊は突出して武田側に布陣し馬場隊と激戦になった。) 織田と徳川の布陣状況からわかる織田徳川の力関係(家康の指揮場所と信長の観戦地の危険度の違い) 現地の地形は当時のまま残っているのでそれぞれの地に立ちそれぞれの将の重いに馳せることができます。
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