- 織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
363 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 00:00:46.82 ID:O0UIx5OX - 超犯罪集団という意味では古今東西で最強の悪徳集団だったのが織田軍。
京都の警備を天皇から委任されていながら、 その京を焼き討ち大虐殺をして略奪大会をしたのは 日本史において類例を見ない残虐極悪行為。
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
754 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 00:23:12.78 ID:O0UIx5OX - >>753
だから何?朝廷の勅使である山科に仲裁を頼みにきた 加治田城を信長に奪われ伊深村に追放されていた佐藤忠能が 信長の非道をチクッて外聞が悪くなった信長が存在しない壺要求の追求を取り下げて 佐藤の外交的勝利が決定しただけでなく 4日後には信長が濃姫の母である姑にまで挨拶にいき取り成しを頼んでるじゃん。 可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々 などと書いていて「連連」と信長が長期にわたり執拗に責め立てているのがわかる。
|
- 織田・徳川の清洲同盟を語る
509 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 01:07:58.57 ID:O0UIx5OX - 違うな。
真田は家康から加増する約束をもらっていたけど 家康は秀吉から一寸の土地も奪えなかった。 なので与える領地がないためシカトしてただけでなく あつかましくも北条に沼田を返せって家康が真田に言い出したから こいつ駄目だって真田が見限って秀吉に付いた。
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
756 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 01:10:02.92 ID:O0UIx5OX - はっ?どこに捏造があんだよアホw
|
- 信長の美濃攻略と信玄の信濃攻略を検証するスレ
171 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 02:05:42.79 ID:O0UIx5OX - 鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは 当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。 合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、 今日の学術的な研究とは違います。 谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、 戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても 「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」 堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。 江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと 書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、 天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。 史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。 また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。 小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。 実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。 美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。 だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。 (秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造) そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、 何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。 この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。 しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと 鴨川論文で明らかになりました。 一次史料かどうかは研究者による真贋確定作業があり、 またその上、年次比定の確定作業もある。 基本的に一次史料に写しは含まれない。しかしこの作業において 料紙の紙質やサイズや花押や印も書き写されているか? しかもその花押の時代推移による変化にきちんと対応しているか? 同様に実名・名字・官途名・などもその時期に書かれた書状と同様に書かれているか? 宛先の改竄などが疑われるか? 書札様文書のおける薄礼・厚礼などの正確な書式に基いて書かれているか。 書止文言に不自然さはないか?「御」の字などの敬語表現と立場がその時代変化に応じた変化であるか。 そういうものがチェックされて初めて「これは一次史料に順ずる書状写ではないか」 「極めて偽物に近いが検討する余地はある」「偽書状である」などとされる。
|
- 信長の美濃攻略と信玄の信濃攻略を検証するスレ
172 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 02:07:14.09 ID:O0UIx5OX - 織田厨って致命的な無知だから、
諏訪大社を信玄が特別厚遇していたと思ってんだろうなw 上野国一宮の貫前神社や駿河国一宮の浅間神社なども 保護していて諏訪大社だけが特別な存在じゃねーのにw 諏訪が武田を乗っ取りしていたら、 諏訪系家臣が取り立てられてるはずだろアホw 仁科盛信は信玄の息子なんだから、そりゃ武田滅亡に付き合うわな。 仁科ひとりは勝頼に付き合ったから諏訪家に武田が乗っ取られたとかバカじゃねw あきらかに仁科が信玄息子と知らないで書いてる無知が恥ずかしいw そもそも諏訪の家臣は誰も取り立てられてないしw 信濃衆の方が甲斐衆より扱いが重かったとする証拠となる一次史料は? 内藤が後継した保科がいつ織田に抵抗したん? 真田も織田に抵抗してないじゃん。 仁科は信玄の息子が継いだから織田に抵抗したのはわかるが、 それを以って諏訪に武田が乗っ取られたとは言えないし、 そもそも諏訪の人物はまったく取り立てられてない。 仁科=諏訪とする意味不明な理論がわからん。 だいたい外様の信濃先方衆が一番最初に戦ってただけだろ。 甲斐衆は諏訪まで出てきて陣を張っていたわけだし。 そしたら甲斐衆を率いて来た勝頼らが 木曽戦線を無視して謎の退却を開始して甲斐に急遽戻っていったわけだし。 主張していることがまったく理論立てていない。 勝頼を裏切って織田に内通したのって穴山だけだろ。 小山田は甲斐府中が織田に占領されて、どう考えてももう無理だレベルまで離反してないし。 武田信廉だって勝頼を裏切って織田に内通してないし。 バカが、甲斐の国人はみんな勝頼は裏切って織田に内通したみたいな書き方をしててワロタw 国人ってのを知らん無知なんだな。 滅亡寸前になったら誰だって家族や一族の生命財産のために 当主を見限るのは当たり前。 それは元を正せば、勝頼本人の人徳の問題。 お前の妄想願望には一次史料の根拠がまったくなく単なる悪意の想像。 穴山が徳川に内応の使者を出したのは2/29で、 織田軍が高遠城に矢文を送り降伏勧告してる日。 すでに勝頼は高遠を見捨てて甲斐に帰ってる。 これは北条がついに軍事行動を開始したことを受けて、 穴山騎下の駿河用宗城が27日に開城に応じたため駿河崩壊の可能性が生まれたから。 穴山が謀反したから勝頼が甲斐に撤退したって大ウソ吐いてるのは信長公記のデタラメだから。
|
- 信長の美濃攻略と信玄の信濃攻略を検証するスレ
173 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 02:10:11.90 ID:O0UIx5OX - 勝頼を諏訪氏に養子に出したとする一次史料は?
史料が提示されてない時点で全く値しないわ。 例えば勝頼の母の父は禰津元直なのが高白斎記によって判明する。 なのに甲陽軍鑑の天才軍師山本勘助が家臣を説得して諏訪の娘を側室にして勝頼が生まれたなんて話は 井上靖や新田次郎みたいな小説家が飛びつくネタであっても、 禰津より御前様=諏訪御料人なんて曲解は小説だけの世界で通用するだけで、 事実ではないことが判明してるし。 そうやって定説ってのは誰かが考えた話が事実化してしまってるだけだ。 特に映像化して大衆が抱くイメージの払拭は難しく反発もでかいがね。 なにせそういった定説に基づき江戸時代に過去帳に記入し墓まで作るケースがあったが、 現在では観光地として宣伝材料に使っているケースがあるからね。 義信って天文23年1554年の初陣以外に戦場にでた記録ないんだよね。 すげー臆病だったり無能だったんじゃね。 永禄8年1565年に謀反を企てるまで11年間何もせずに遊興してただけじゃん。 勝頼の初陣は永禄6年1563年でその後、毎年戦場で勇敢に暴れまわってるもんな。 そもそも諏訪は長坂光堅が支配していたから勝頼はまったく関係ないし、 勝頼が高遠城主になってた8年間って甲陽軍鑑のネタでしょ。 勝頼がちゃんと高遠へ赴任してた証拠ってまったくないんでしょ。 伊那の郡代だったから伊奈勝頼とか高遠を継いだから諏訪勝頼って完全な甲陽軍鑑の架空話でしょ。 最初から勝頼の方がはるかに有能だったから嫡子に変更されてたんだろ。
|
- 長篠・設楽原合戦の真実 part7 [転載禁止]©2ch.net
215 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 09:41:20.40 ID:O0UIx5OX - 信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。
天正3年に入っても長篠で痛みわけする寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。 武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、別隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし 4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、 その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?) 遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して 彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる) その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。 小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って (尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候などと書いてる。 このことから当初案では石山本願寺救援のための出陣計画だが岡崎内応策が露見した後、作戦変更して 穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか? そのために長期対陣に備えて武田軍は穴山・信豊・小山田・甘利が率いる実数6000くらいの兵しか連れてこなかった。 しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから 織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。 (熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった) そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、 武田軍が残り5万4000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して 伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ 尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として 各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
|
- 長篠・設楽原合戦の真実 part7 [転載禁止]©2ch.net
216 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 09:43:49.53 ID:O0UIx5OX - 長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、 織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない) 撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記) 高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の 押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。 もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して 陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。 織田徳川連合軍3万に対して6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだからそりゃあトラウマでしょ。 信忠に対し孤立無援の岩村一城が半年以上かけてもまったく落ちないという武田防衛軍の精強さもまたトラウマ化させとる。 6/13の謙信への書状における信長の想定は、 岩村城が懇望してきても5、3日で落とせるので許さないと言っていたが、 実際の戦況は苦戦続きの信忠を見た家康が信康を派遣しようとしたので、 6/28に慌てて信忠は若年だからと補佐してくれって佐久間信盛を派遣していることがわかる 二俣城が落城したとする妄想もあるそうだが、 その根拠は徳川実紀の出典一覧にまったく存在しない著者不明・成立年代不明の 明らかに鈴木肇氏の妄想で書いた偽書認定されている浜松御在城記にしかない。 デタラメ神君マンセー「大須賀記」にしか登場しない犬居城陥落物語w 天野文書には 長篠於乗本、最前越川則合鑓などと渡河して攻勢に出た武田軍という動きがわかるし、 真田宝物館にある書状でも、 則時二乗懸、遂一戦宗者数多討捕、乗其利、 信長至陣前押寄候処、 構陣城籠居候之間、 入入数之砌、当手之先衆聊(いささか)失利候 などと書いてるように、 渡河しての野戦で織田軍を大破して、 敗走した織田軍が石川と鳥居が家康に命じられて19日から築き始めた柵に逃げ込んだことがわかる。 しかし2日で急造した陣城の柵に逃げ込める人数なんて限りがあり、 入れなかった織田軍が壊滅したのは想像に難くない。
|
- 長篠・設楽原合戦の真実 part7 [転載禁止]©2ch.net
217 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 09:45:11.92 ID:O0UIx5OX - 有名武将が畳の上で死ぬより、壮絶な死に方したほうが大衆受けするし
実際、軍記講談話を除けば、馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし 長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、 嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、 山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、 天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。 しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。 唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。 明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、 勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、 山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。 むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて6000の兵力で長篠に現れたとしか思えない。 だからこそ信長は深く追撃することを恐れてさっさと帰っていった。 山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。 真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。 信玄政権から勝頼政権への移行で、構造改革があって引退してるんじゃないか? 長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。 なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、秋山のことは引き寄せてから今日、 磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと 秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。 実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、 信綱は登場しないし、山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど 天正元年7/30の時点では、武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、 天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、 明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。 天正3年4/16の内容は>644に書いてあったんだな。その文書に昌幸が登場する。 信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。 長篠野戦で武田軍が織田軍を圧倒して鳥居と石川の二人が作った柵の中に逃げ込めなかった織田兵が虐殺された。 信長はこの虐殺戦で負傷し、 以後、花押が書けない体になり 信忠に家督を譲るハメになった。 そして甲濃和睦交渉を申し出るようになった。
|
- 長篠・設楽原合戦の真実 part7 [転載禁止]©2ch.net
219 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:05:26.10 ID:O0UIx5OX - 武田と同盟するにあたり東美濃を譲渡して岐阜攻略を支援してくれたので信長は本拠地を移転。
長篠で半殺しに合い、岩村ですら半年も落ちず、勝頼の援軍が甲府を出撃したと聞くと 和睦詐欺した信長は勝頼との正面衝突を避けるために武田領からより遠い安土へ逃亡。 大外記中原師廉記の長篠の記述。 今日辰の時より合戦始まり未の刻に至って 甲斐国衆拝勲云々。数人討ち取られると云々。信長殿危険。 注進の朱印今日の日付にて廿四の日、村井所へ登る也。珍重珍重。
|
- 信長の美濃攻略と信玄の信濃攻略を検証するスレ
175 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:22:28.48 ID:O0UIx5OX - 楽市楽座って斉藤や上杉や北条や今川らがすでに出していて
信長は斉藤が出していたものを、住民の要求で既得権益追認しただけなんだよな。 織田家で独自に楽市楽座令を初めて出したのは 元亀3年7月の近江国金森への佐久間信盛。続いて天正2年5月の金森宛で佐久間信栄。 続いて柴田と秀吉。特に楽市楽座令を抵抗が激しい西国で初めて出したのが秀吉。
|
- 果たして今川幕府創立は可能だったか?
425 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:25:30.22 ID:O0UIx5OX - 実際、水野が信長と敵対したことは一度もなかったしな。
|
- 織田・徳川の清洲同盟を語る
512 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:32:52.73 ID:O0UIx5OX - 秀吉の調略戦の最後のトドメが
旧信濃守護家小笠原氏と 西三河総司令官岡崎城主の石川の徳川離反 徳川は人材不足で三河以来の元勲でありながら冷遇し 岡崎3奉行衆に留めていた本多重次を急遽、 岡崎城主に抜擢して対応せざるを得なかった。
|
- 実績の割に知名度が低い戦国武将
517 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:38:52.49 ID:O0UIx5OX - >>512
小西が政治外交戦争と何でもできる辣腕家だったことや 秀吉から高く評価されていたのが判明してる。 大河で描かれたような三成や行長像の正反対の人物。
|
- 信長の領土拡張は実力なのか?棚ボタなのか?
666 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:46:50.85 ID:O0UIx5OX - 経済政策に失敗した信長は貫高制を維持できず崩壊。
その結果、土地を支配できず税収も把握できず、 軍政改革も分国法も作れず 軍事費用と兵糧困窮の解決策として虐殺と現地調達の略奪を繰り返し、 家臣にすべてを丸投げして、無謀な攻略目標の強要だけを命令。 結果、一揆と謀反だらけのうちに 統治と組織作りをしなかったツケが回ってきて 50年前に流行った時代遅れの下克上を招く。 しかもダブル下克上を達成され信長が火あぶりの私刑にされ 織田家は乗っ取られた。
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
759 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:51:30.39 ID:O0UIx5OX - 捏造してねーだろアホかw
実際に濃姫が記録から消え去ってんだろうが。 勅使がきたから調停してもらったものの 信長への忠義のために娘や息子が磔にされて犠牲になった 佐藤は結局、加治田に復帰できず。 信玄西上戦ではその加治田城が信玄に内応している始末。
|
- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
350 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 10:52:35.25 ID:O0UIx5OX - >>人を殺して女を分捕る暴虐ぶりが信玄の本性
で、一次史料はまだなの?
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
762 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 11:42:16.49 ID:O0UIx5OX - 家康自らが焼き討ちしたあとに占領した駿府。
その駿府を再建する際に駿府城と清水湊まで河川を切り開いて 船舶が駿府城下まで接岸できるようにする計画があった。 しかし予算の関係で大水堀削減は中止となった。 二の丸堀の外側に沿って北に進むと清水御門跡がそれである。 ここは舟入と呼ばれていて、ここから本丸堀につながり、 三の丸の堀にいく一本の水路もあった。 さらに三の丸の東北隅で、一本の運河につながっている。 このように清水湊は非常に重要視され大御所家康の隠居城の縄張りにも影響を与えた。
|
- 【天下布武】織田信長総合スレ【吉法師】
461 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 11:44:25.79 ID:O0UIx5OX - >>459
延暦寺の坊主は信長のやった全山焼き討ち虐殺の悪事については 仏教の教えに従い、恨み辛みには思わず そういう歴史的事実があったということを受け止めていくだけですといってる。
|
- 【今川氏真】バカ殿を語ろう【山名豊国】
639 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 12:37:16.49 ID:O0UIx5OX - 佐々の場合は肥後一国レベルで一揆が起きた結果、
宇都宮氏など他国にまで一揆の輸出をしちまったからな。 まぁ本百姓体制という地主否定の豊臣政権の中間搾取否定策を 佐々がきっちり肥後農民に説明しなかったため、 国衆の特権が否定される危機感から農民を騙したため誤解を受けた部分があるんだろう。 九州は後進地帯なので民による惣村一揆のような民主合議による上位権力への抗議抵抗が成立しておらず 国人に支配搾取される民でしかないから意識が低い。 徳川幕府では北条金貸し体制が取られ地主が見事に復活して貧民が搾取される構図に戻ったが。 また佐々が一揆軍と戦うにあたり秀吉から指示を受けずに独断でやっちまったのが最悪。 小西などはきちんと秀吉からの指示を得てから行動してる。 収入に関しては越中一郡に追加して摂津一郡の加増を佐々は貰って優遇してもらってる。 島津の家臣新納文書には秀吉の考えとして、 自分が肥後国衆に御朱印を与えておいたのに佐々がそれに背き、 その安堵した領地を与えず国衆たちが迷惑した。 肥後の百姓がきちんと農作業ができるようきちんとたびたび重ねて 説明理解させて納得させてからはじめて検地をしなければいけないのに そのうえ百姓に無理を通す命令を出すに及んで迷惑し一揆が起きたと書いてる。 また安国寺宛秀吉書状でも肥後国侍同百姓以下の申し分を聞き届けて報告しなさいとも書いていて 秀吉は理解を示している。 また現地詮議のために上使衆として浅野長政を主席として派遣してる。 佐々に不利な報告をしていたとすれば浅野長政だろう。 この男も曲者で栃木の宇都宮改易事件にも噛んでいるといわれているしな。
|
- 【天下布武】織田信長総合スレ【吉法師】
463 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 12:41:00.08 ID:O0UIx5OX - >>462
で、お前の主張を裏付ける一次史料はまだなのか? 願望妄想ばっか書いてないではやく出せよ。
|
- 実績の割に知名度が低い戦国武将
520 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 12:45:12.50 ID:O0UIx5OX - 細川家譜並みに三成や小西を悪くいい
自己正当化しまくりの 清正記が事実のように宣伝され 戦前は日本男子のお手本みたいに清正が顕彰されたからだろ。 平成のいまは特に人気あるわけでもないだろ。 ほんと歴史捏造ばっかの細川は気持ち悪い。
|
- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
352 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 12:51:37.54 ID:O0UIx5OX - 野戦で討ち取られた兵の首を並べて援軍は来ないことを
示しただけじゃん。なにが悪いんだよ。 野戦で敵兵の首を取るのが残虐とかどんだけ左翼キチガイの平和主義だよアホw 諏訪氏のイチジクがほとんど死んだなんて話は初耳だ。はやく一次史料を出せクズ。 信玄の側室は油川氏の娘で父は諏訪攻めにも参加してるのだがw
|
- 武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
353 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 12:52:36.21 ID:O0UIx5OX - 訂正
×イチジク ○一族
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
764 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 13:15:18.46 ID:O0UIx5OX - >>惟任謀反記
軍記じゃんw >>織田信雄分限帳 はいはいwそれが濃姫だなんて願望妄想もはなはだしい。 御局1000貫 信雄正室 岡崎殿700貫 信雄姉妹 大方殿640貫 信雄生母 600貫あつち殿 信長生母 はい終了。
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
765 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 13:16:15.00 ID:O0UIx5OX - 信忠の幼いころの一次史料だってねーだろアホがw
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
770 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 15:03:03.84 ID:O0UIx5OX - >>766
はいはいw願望とか書かないでくれるかなw 濃姫である証拠なんてまったくないし ただ単に一般大衆向けの歴史趣味雑誌の学研・歴史群像で こじつけたネタとして紹介されただけで史学ではまったく相手にされてねーからw そもそも血のつながってない濃姫を信雄が奉る理由がない。 むしろ生きていたら邪魔なだけだし。 自分の母を側室だからなんて卑下する理由もない。 むしろ信長の継承者として、三法師から家督を奪い取った信雄が 自分の母こそ正当な信長正室だという位置づけを持つのはおかしなことじゃない。 そういう正当さの理由づけこそが家康からの支持を受ける材料にもなる。
|
- [転載禁止] 武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part5©2ch.net
584 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 15:11:14.33 ID:O0UIx5OX - 晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中 小山田が支配した郡内 穴山の支配した河内 でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度) この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、 天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。 これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。 たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず 訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと 介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、 武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。 つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め 国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、 その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。 しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。 これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。 このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。 また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、 法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており 信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。 秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
|
- スレ立てるまでもない質問スレ
94 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 15:23:13.86 ID:O0UIx5OX - 足利義持が死去するに及んで、群臣が後継をだれにしますか?と尋ねた。
しかし義持は「どうせここで私が指名したところでお主らが支持してくれなければ意味はない おぬし等で相談して決めるがよい」と言って死んだ。 当時の上位権力者というのは重臣たちの合議の上で支持していくというのが当たり前だった。 とにかく支持を得るために行動するのが当主の器用であり才覚だった。 そして何らかの変事が起きない限り当主身分は終身にわたるものであり、 そうでない場合は権力の分裂対立が生じてしまうので総領制の元で権力集中が行われた。 特に器用を謳われたのが織田信秀で取り分け器用の仁と賞賛された。
|
- 武田信玄の凄い所って結局どこよ?
772 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 15:34:52.14 ID:O0UIx5OX - >>によればあづち殿と言われる女性は1612年に亡くなっている
はいはいwまたデタラメを吐いてるねwww 妙心寺史に1612年に亡くなった女性について書かれているが それがあつち殿であるなんてどこにも書いてないわ捏造乙w 側室腹であろうとも信忠は家督継承者として正式に継承してるんだから 家督簒奪者の信雄とはまったく性格を異にしてるだろうが同一視してんじゃねーよ。 そもそも濃姫の生存確認が取れるとするのが愛知県史ですら岐阜での壺事件の時だけだと書いてるし その後の信長の寵愛対象は明智光秀の姉妹であり濃姫はまったく省みられなかったと指摘してる。
|
- スレ立てるまでもない質問スレ
96 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 15:38:27.53 ID:O0UIx5OX - 漢の劉邦は愛妾の子に皇帝の座を与えたかったが、
群臣が長男を支持したために やつには翼が生えてしまったようだ。 自分の力ではどうすることもできないと嘆いた。 当主というのは力ある群臣らによって擁立廃嫡されるものなのだろう。
|
- 武田信玄は過大評価されすぎ part4
186 :人間七七四年[]:2015/01/30(金) 15:43:55.39 ID:O0UIx5OX - はっ?北条も織田も陣屋であって大名復帰できてねーだろw
勝頼と同母である弟の仁科盛信の嫡男の武田信基が4100石扶持高家旗本になって現在まで男系でつながってるし。
|