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人間七七四年
果たして今川幕府創立は可能だったか?
信長の領土拡張は実力なのか?棚ボタなのか?

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果たして今川幕府創立は可能だったか?
392 :人間七七四年[]:2015/01/24(土) 20:20:59.10 ID:ZRFSJHFB
そもそも上洛戦で信長は敗退して失敗してるが、
浅井長政や六角義秀や将軍奉公衆の活躍で上洛できただけだし。
信長の領土拡張は実力なのか?棚ボタなのか?
634 :人間七七四年[]:2015/01/24(土) 21:15:07.57 ID:ZRFSJHFB
金子拓氏
領国支配のやり方については、
信長のそれに他大名と比較しての先進性はなく、
むしろ遅れていたと考える見方が、
戦国大名研究の立場からかたちづくられつつある。

いくさの結果として獲得した領域に対する支配のやり方は、
同時代の戦国大名とさして変わらなかった、
むしろ後進的であったという評価が、
これも戦国大名研究の立場から指摘されている。

こうした統治の未熟な面は、紛争が起きたときの解決方法にもあらわれている。
実務的な仕事を担当する吏僚層の活動は目立たず、
側近的立場である馬廻や重臣層がそのような職務を兼ねる状態がしばしば見うけられるのだ。
秀吉は全国統一を成し遂げ、太閤検地をおこなって石高による所領支配の統一的基準を打ち立てるいっぽうで、
既成の官位秩序などを巧みに利用して従属する諸大名の身分統制をおこなった。
大名たちは京都や大坂・伏見に屋敷を与えられ、そこへの居住が求められた。
信長のばあい、官位によって、彼の「天下」の外にあって有効的(もしくは従属的)
な関係を結んでいる諸大名までも統一的に秩序づけようという考え方はまったくもっていなかった。
馬廻などの側近集団の安土集住の強制は確認できるし、
安土城跡では重臣たちの邸宅跡だとする伝承ある遺構も発掘されてはいるが、
周辺諸大名までをもここに集住させようとした形跡はない。
たとえばそれは、小田原北条氏が鷹や馬などを献上するために
安土に使者を派遣するといった程度の関係にとどまっている。
ましてや俗に鉢植えと呼ばれるような大名の封地替えまでには当然のことながら、
彼の権力はおよんでない。
秀吉の構築した支配体制が徳川幕府に継承されてゆくことを考えれば、
信長と秀吉のあいだには大きな断絶がある。
秀吉の時代を近世の始まりとしていいのなら、
信長の時代はいまだ中世の色合いが濃厚に残っている。

その行き着くさきは誰しもが大筋で予想できることなのではないだろうか。
すなわち、そのまま天下静謐はなし崩しに破られ、
毛利氏や長宗我部氏を敵とした戦乱状態がなお収まらないという状況である。
そうなると、武家による平和が達成された近世が到来するのは、
もっと先の話になっただろう。あるいは、そうした時代が訪れることすらなかったかもしれない。


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