- 【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
888 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 01:46:35.43 ID:O/4zunnC - >>887
そもそも戦国大名は織田に限らずだれでも一年通して季節関係なく戦ってるっつーの。 「農兵は農作業があると帰る」という思い込みこそが幻想。
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- 戦国ちょっと悪い話41 [転載禁止]©2ch.net
290 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 06:14:01.10 ID:O/4zunnC - つか家康がそれを認めちゃうと、将軍が主体的に動いてはならない、という話になるから、
まだまだ将軍が自分から政治的に動いて行かなければならない世の中である以上、家康の立場としては それを否定しないといけないでしょ。
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- 【戦術】戦国時代の軍事学【戦略】
905 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 17:33:07.89 ID:O/4zunnC - 意味的には変わらんよ。
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- 戦国ちょっといい話41
593 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 17:38:17.47 ID:O/4zunnC - 天正6年、播磨の国の別所長治が織田信長に反旗を翻し三木城に立て籠もると、
羽柴秀吉は信長の命を受けて、大軍を率いてこの城を攻められた。 この時、秀吉は諸士を前に、金で山道が描かれ白い輪違いの紋のついた赤い母衣を示し、 「この母衣を望むもがおれば、贈ろう」と言った。 ここに脇坂安治が進み出て「御母衣に恥はかかせません。」と申し受けた。 その日、安治はこの母衣を掛け、三木の城下にて敵と槍を合わせ首を取った。 秀吉はその働きに感じ入り、「今後、その母衣の輪違いを汝の家の紋にすべし!」と言った。 これにより、赤き旗に白の輪違いが、脇坂家の紋となった。 この頃、同国神吉の城主・神吉民部が、別所に同心し三木に加勢した。これに秀吉は、神吉城を 取り巻き攻め立てた。 この時、脇坂安治大手の木戸口まで攻め寄せた所、壁下の場所で鉄砲で兜を撃たれた。 安治はたちどころに目が眩み地面に倒れた。これを見た宇野伝十郎は安治を抱きかかえ引き退こうとしたが、 ここで気がついた安治は、「この程度の負傷で退くのは口惜しい」と暫く休んでから、一番に大手の口から 城に乗り入れた、伝十郎も安治に続いて乗り入れ、これを始めとして秀吉軍の多勢が一気に押し破り、 ついに神吉城を攻め落とした。(この時安治25歳であった) (脇坂記) 脇坂安治、三木合戦の頃の模様である。
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908 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 17:43:23.05 ID:O/4zunnC - いわゆる近代軍隊の原型となった西欧の軍隊の分隊も、火縄銃の時代から(もっと言うとそれ以前から)10人前後だぞ。
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911 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 18:01:14.63 ID:O/4zunnC - >>910
> スウェーデンだったら28人編成 それは何時の時代のスウェーデン軍だ…?
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913 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 18:16:42.52 ID:O/4zunnC - >>912
もしかして小隊と分隊の違い理解してないのか
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915 :人間七七四年[sage]:2015/01/24(土) 18:20:54.50 ID:O/4zunnC - >>914
えーっと… モンゴルの「十人隊」とか知らない?知らないのか…
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