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人間七七四年
織田・徳川の清洲同盟を語る
実績の割に知名度が低い戦国武将

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織田・徳川の清洲同盟を語る
314 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:45:41.05 ID:nXT7DGCT
秀吉の配下の兵卒は秀吉の直属や部下が雇った直轄軍。
三鬼清一郎氏によれば、秀吉は陣立書の導入によりそれまでの一揆的秩序・寄り合い所帯の豪族連合的な軍隊を脱却し
日本で最も早く上下関係が確立し、確固たる統制の行き届いた公儀の軍になったとされてる。
現にこれまでとは比較にならないほど、秀吉は文書によって事細かに指示を配下の武将に送ってて
配下の武将もこれに忠実に動いている。
それまでと違って自分の意思に忠実に動かせる手足のような軍勢になったということ。
織田・徳川の清洲同盟を語る
315 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:46:31.40 ID:nXT7DGCT
清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
秀吉の配下の兵卒は秀吉の直属や部下が雇った直轄軍。
三鬼清一郎氏によれば、秀吉は陣立書の導入によりそれまでの一揆的秩序・寄り合い所帯の豪族連合的な軍隊を脱却し
日本で最も早く上下関係が確立し、確固たる統制の行き届いた公儀の軍になったとされてる。
現にこれまでとは比較にならないほど、秀吉は文書によって事細かに指示を配下の武将に送ってて
配下の武将もこれに忠実に動いている。
それまでと違って自分の意思に忠実に動かせる手足のような軍勢になったということ。

秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
織田・徳川の清洲同盟を語る
317 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:47:43.59 ID:nXT7DGCT
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
織田・徳川の清洲同盟を語る
318 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:48:54.79 ID:nXT7DGCT
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる

最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり
自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね

三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる
織田・徳川の清洲同盟を語る
319 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:50:12.87 ID:nXT7DGCT
秀吉の鬼畜っぷり


・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする
・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる
・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる
・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国
の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した
実績の割に知名度が低い戦国武将
332 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:52:40.94 ID:nXT7DGCT
そもそも織田家は実力主義じゃなくて血縁とか縁故主義だからな
中川秀政とか原田直正とか丹羽長秀とか池田とか織田の一門だし
秀吉の織田の親類衆の木下の家系だし
織田・徳川の清洲同盟を語る
320 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 13:54:39.10 ID:nXT7DGCT
秀吉は最初からかなり高い身分だっただけでしょ。
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
織田・徳川の清洲同盟を語る
326 :人間七七四年[sage]:2015/01/13(火) 14:19:10.80 ID:nXT7DGCT
秀長が織田の家臣って信長や信忠から直接の書状も、秀吉と関係なく軍団に編成された事もないのにどこのお花畑の話だよ


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