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人間七七四年
岡山の城

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岡山の城
333 :人間七七四年[]:2015/01/13(火) 11:30:23.44 ID:SAD21JSz
浅口市、茶臼山城
大内義隆の築城により、大内摂津守が居城し後に毛利氏に帰属する

道がやや消えてる所あり険しい。山下直下斜面に巡る帯郭あり狙撃場?
尾根に着くと谷に堀(他道と繋がり後世の切通しか)
尾根斜面登ると削平された細長い曲輪(切岸に段々郭?)
そこから尾根をやや長く登り傾斜ある郭?、上が面積のない?茶臼山山頂で
小さな札ある、藪中に矢竹。
山頂南西やや下ると両面に石列あるが土流れ埋まりかけ小郭?。そこを下る谷に堀なし

山頂から東に小郭群らしきあるが明瞭でなく怪しい、下の谷にも堀なし(実は
この先が城らしく地形を良く調べず山頂にあると思い込み山を降りてから気ずく
寒い中、早朝起きて薄暗い藪中に自分が持ってしまった趣味を後悔しながら
突入してこの決果に落胆)
本城に到達できてないが茶臼山山頂より下の三郭目が比べ広く明らかな造成で
人の居があったか。城跡近くまで到達しながら残念




寄島竜王山は土石流で曲輪が埋まり、加賀山城も山上だが大分往来の姿を崩してる
らしい(やはり山上の城でも変化してないようで変化してるみたいだ。個々の城
には特性があり地道に城跡とされる場所は全て調べ上げ「記録に残す」事が
後世のため、謎が多い岡山戦国史を考える上で今成されるべき事か)
岡山の城
334 :人間七七四年[]:2015/01/13(火) 11:53:10.95 ID:SAD21JSz
笠岡市、青佐山城
細川通董が毛利氏の援助を受け築城したとも伝えられ、七年間在城したのち
竜王山城に移り青佐山城は家臣、原田種雅に守らせた

簡素ながら城看板、展望から海が見える城はいい
土塁言われる切岸に岩垣?あり、上が土塁高まりと小郭、逆に横堀落とされ逆にも竪堀
本城は細長い輪郭式で主郭に朽ちた神社あり、帯郭が巡り二段状。
更に下が3m?の切岸を備え同じように広い?帯曲輪が巡る(井戸か窪みあり)
一方は急岸だが、もう一方は下にも曲輪があり小さいが深い井戸跡
場所により下に更に郭

一部藪で見えないが、造成もよく全周要所で迂回を阻害する竪堀、横堀が落とされ
(堀は5,6はあった、手の入れようから戦闘想定があったか。
資料にするのか堀を丹念に撮影するカメラマン遭遇)
主郭下の切岸が良く、場所によっては見た範囲四段ぐらい郭が連なる

城には整然さが漂い海の監視に抜群なパノラマで統制された組織かと妄想
(今は宅地になった城でも記録では境目の緊張から夜襲に脅え松明を昼のように
明々と焚き怒号が飛びかってたとあり?、ここの兵士も有事に景色を楽しむ余裕はなかったか)
目の肥えた人は知れず地元の戦国城郭が好きな方なら海とのコラボも楽しめ満足できる城
(記憶歪み起こしてないなら、この地域争いが絶えず名家を盟主に迎える事で
治めようとし、ここを最初に徐々に力を養い内陸に城を移していった思うが?
のちに付け足したのか意外と遺構良好)
岡山の城
335 :人間七七四年[]:2015/01/13(火) 12:22:41.14 ID:SAD21JSz
浅口市、上竹の城山城
分限帳には上竹の武姓の武士四名が細川氏の家臣として数えられ武氏と
上竹城山の何らかの関係が推測される

戦前の畑段々から登るが一段一段がキツい。
途中大岩たちが散乱しており、侍がここで何か工作してたか
城は藪(藪コキはできるだけ避けたいが遺構を見つけた時の感動を演出してくれる)
本丸の曲輪は広く外周を半分、微土塁囲い(最高50cm?土流出も考えると当時は
もう少し高かったかも)
尾根繋がり東隅下に両面腰郭、挟まれる形で竪堀が間に落ちてる(城の
弱点補強箇所か、感じたが後世の破壊道辺りらしい?)更に横にも虎口?
本丸中心に石列跡?と横堀(というには小さく屈曲しており違うか)
尾根繋がり北西隅から西端に石垣が3箇所見れたが北西以外は後世の畑の石垣にも見える
(後調べでやはり半分畑化されたらしく、この辺りも本来土塁があったか)

本丸下、南は傾斜を持ち段々に見えるが藪で城遺構か畑跡か知れない(無防備さ
を考えると畑跡としても元城遺構か)。その下両端が堀状に窪み堀跡?

神社には城の事は書かれておらず低山だが痕跡を残しながら藪中に城は埋もれ
幻的な所がいい(明治でも知れない事だらけ、言われるのに戦国時代となると、、
追い詰められた状況で精神肉体伴に衰弱し、皆自分の事しか話さなくなり
その状況での首脳部の息を殺した口論を想像
太平洋戦争の帰還者も多くは加害者、被害者になった経験を一言も語らず亡くなり
中世にあっても手柄といえ武勇は迷惑がられたとあり?、人が戦争の鮮明な場面を
語りたがらない生き物なら、戦国城が無数に存在しながら幻のような捉えられ方される
のも多角的視点から一つの理由として理解できるか)

城は竪堀や土塁見れるが後世の破壊もあり判断難しいが、構造はシンプルで?
本丸は広く他郭の存在は薄く攻められる事も配慮しながら収容的な所かもしれない
岡山の城
336 :人間七七四年[]:2015/01/13(火) 12:43:29.56 ID:SAD21JSz
岡山市、横尾城(追記)

秀吉龍王山のさほど距離のない裏丘。城直下の神社に1m土山あるが城
とは無関係か

城跡には途中石崩れや堀りかと思う所あるが、藪山で観察する余裕なく
多分自然地形だろう。頂上近くには高さ50cm、横3m以上の石垣あり
一瞬驚くが、何か整然としており、案の定上に祠がある

城跡思う頂上はやや広く削平されてるが半分草むらで周囲を下るどの方面
も岸が緩やかで?防御性を感じず、藪中を巡る範囲では遺構なし

ここまで藪コキしてこのままでは帰れないと、繋ぎの尾根にも行くが
堀はなく、その先は平らな?尾根地で、こちらが本城域かと少し可能性感じたが
藪草で見えず諦める

山上は道跡あるが藪のわりに遺構らしきが余り見れず疲労感だけが残った
場所間違いでないだろうが、そもそもここが城か怪しい?
見えない藪に遺構、訪れた所は実は出丸、表面観察の限界で発掘すれば
地下から礎石、溝が出土という可能性もありそうだが、見た範囲では
名主層の居城というより水攻め陣の攻められる事を意図しない駐屯地かと妄想




高山城(追記)
調べると毛利の小早川隆景が態度を翻した宇喜多征伐の拠点城にしたが西から
織田が進出してきて深入りした形になり、逆に包囲を恐れ慌てて退いた
というニュアンスの城か?土石流を起こしたという事で曲輪が崩れたか

比丘山城もろくに調べないため当時とは地形改変を大分起こしてるらしい
山下の城は山上の城以上にわからない
岡山の城
337 :人間七七四年[]:2015/01/13(火) 13:16:19.59 ID:SAD21JSz
岡山市、日近城
在地領主と被官契約を結ぶ村落レベルの侍、日近修理進の居城
とあるが、毛利が鍛冶山城攻撃の際の防御に特化した陣城かとある

竹藪から登れば溝穴2つの間に虎口。主郭は素晴らしい土塁囲いで後部のみ
傾斜はなく平坦で中央祠と微土高まり。
西に3m切岸、下は傾斜郭、浅土塁
土塁囲い外の北急斜に規模のある畝竪群(何とか主郭に侵入しようとする
敵と、そうはさせじ、と築城者の思惑感じる)
主郭裏、尾根伝いに堀切あり、その先の尾根にも土を削った空間があり
初めよくわからなかったが高場から見れば二重堀(山下に伸びる)を
設け虎口と内部空間が武者の待機場だった武者溜り、と複雑ながら
そんな所か(尾根側は鍛冶山と逆だが大衝突を起こす前に国人が生き残りを賭け
織田方の調略に乗りかけてたらしく?毛利は危機的崩壊で、ここは味方の中に
潜む内通者に向けた守りかと素人妄想。又、連想で鳶ノ巣城の展望台に小さく刻まれた「毘」は
不利な状況での毛利方の誰かの必死の暗示的な祈りに思えた、深く刻まれ違うだろうが)
その先尾根は平坦続きだが止める

西に傾斜した広い曲輪あり、そこにも規模のある畝竪群
主郭東は急な岸に頼り浅削り腰郭1のみ

素人の自分でも意識できる明瞭な虎口が5?あり出撃時の便か
本がいう通り大部分が傾斜地に築かれてるが、要所で深い竪堀も落とし
主郭は高くないが全周土塁囲いで外部は二段の帯郭群、畝状竪堀、二重堀
急岸と固めてる
自前情報では期待しなかったが、水攻め関連陣城として築かれたのなら
城土台だけでも見所が多く、当時の喧騒が聞こえてきそうで見てきた範囲では
陣城としてどこよりも遺構を残してる気がする
高松陣城群より造りが良く?、改変される前の?当時の高松陣群もこの城ぐらい
の造りだったか(個人的には陣以上の緊急時に籠もる城としても見えたが
急造の城なら重機で削ったような深い堀など1,2日での構築は無理で
かなりの人員を動員しただろう)
岡山の城
338 :人間七七四年[]:2015/01/13(火) 13:33:49.97 ID:SAD21JSz
岡山市、綱濱ノ熊城
市史に阿比六郎居る、綱濱合戦あり

二日市の寺境内。小丘ぐらいと考えれば周りは全の住宅街で境内は寺と
住家で老犬が吠えて役目を果たしてるだけで城?の名残は確認できず
裏手に個人的な庭があるが、入る訳にいかないので止める
弓場、馬場など地名が残るかと寺の外を軽く一周するが確認できず

意外と岡山城の近くには知れない城があり、単純に考えれば岡山城は
近世化され、戦国時代の城という感じを余り残さないが?隣の川を利用した
南の支城か(豪族阿比氏の屋敷跡で宇喜多直家が岡山城入城に至って
寺院として整備されたようである伴あるが)
当時の地形も規模も知れないが(境内が居館なら城自体はもっと規模あった?)
緊迫の中豪族ながら立派な鎧を着けた武者を妄想

人が生きるためには必ず身の置き所を持たねばならず、館といえど弱肉強食の
戦国時代であり、更に合戦があったからには戦いに備え堀囲い、土塁など
存在した城郭か


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