トップページ > 戦国時代 > 2015年01月13日 > HrajbQXf

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246 :1/2[sage]:2015/01/13(火) 18:42:05.56 ID:HrajbQXf
洞院公数の憂鬱。
 ある公家の家の消滅について。

 洞院家といえば、西園寺家とともに藤原氏閑院流の中枢を担う名家として知られる。
 特に、南北朝期の洞院公賢は、有数の碩学として知られ、その日記『園大暦』は、随一の宝だと考えられていた。
 以降学問の家と知られ、権門勢家の系図『尊卑分脈』の編纂など、多くの学問成果をあげ、人々に一目置かれていた。
 嘉吉元年(1441年)に生まれた公数もまた、学に敏い廷臣として朝廷儀礼を差配し、若い時から才をあらわす。
 筝の演奏にも卓越し、洞院家当主に恥じぬ人物として、順調に出世を重ねていた。

 しかし世の中の状況は、必ずしも順風ではない。
 嘉吉の乱以降、洞院家の所領は次々押領され、財政難に陥っていた。
 文明二年(1470年)、ついに公数は窮困のあまり拝賀不能となり、左近衛大将・権大納言を辞することになる。
 応仁の乱がトドメだったようだ。

 その後、悪化する情勢の中、公数は名門・洞院家の維持が不可能と悟る。
 文明八年、公数はついに跡継ぎのないまま出家してしまった。これによって洞院家は当主を失い、断絶状態となった。
 洞院家が没落して醜い様を見せるくらいならば、この世から消してしまおうと思ったのだろう。
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247 :2/2[sage]:2015/01/13(火) 18:43:01.45 ID:HrajbQXf
 しかし実は、この状態ならばまだ復活可能であった。
 公家の家の存在意義は、文庫と故実との継承にある。
 文庫さえあれば、別人を当主として、再興することができた。
 洞院文庫は、少しずつ公数が切り売りしていたが、まだ大半は残っていた。

 そのことに目をつけたのが、洞院家のライバルである西園寺家であった。
 洞院を従えれば、名実ともに閑院流のTOPになれる、という魂胆である。
 文明十四年十二月、時の当主西園寺実遠は、次男公連を洞院当主とすることを天皇に請い、それを許された。
 続いて実遠は、洞院文庫の確保、とりわけ重宝である『園大暦』の確保を狙う。

 だが、公数にとってそれは認められるものではない。
 西園寺の風下に立つ洞院家は、公数にはとても認められるものではなかった。 
 ゆえに公数は、わずか4ヶ月後、翌文明十五年三月に中院通秀へ『園大暦』を売り払った。
 中院家は、村上源氏久我家の支流であり、閑院流どころか藤原氏でさえない。
 こうすることで、洞院家の復活を完全に阻止しようとした。
 そうでなければ、わずか3ヶ月で売り払うことを決めたりはしないだろう。

 かくて、公数の予定通り、洞院家は消滅することになった。
 西園寺から家をついだ公連は、若くして亡くなり、その後をつぐひとはあらわれなかったのだ。

 名門洞院家を潰した公数の評判は、極めて悪い。
 同じ閑院流の三条公敦によって、文明十一年に書写された『尊卑分脈』には、最後に次のように記されている。

「この系図、洞院累代の本なり。しかるに左大将入道〈俗名公数、法名を知らず〉、放埒の仁なり。一流すでに断絶分と云々。記録・抄物等、悉く沽却す。耳を洗うべきものなり」

 「聞いた耳が汚れる」とまで言われるほど評判が悪くとも、プライドを守り、ついに家の断絶を成し遂げたある公家のはなし。


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