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人間七七四年
結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの??
【疑問】スレ立てるまでもない質問12【戦国時代】
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
【平成26年】 黒田孝高総合スレ 3 【大河の主役】
伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
信玄・謙信があと半年〜1年くらい長生きしたら
本能寺の変の黒幕は朝廷だった!Part2

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結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの??
189 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:04:59.76 ID:IDfSvz9k
>>184
安土日記の信康の話って、信長が家康の好きなようにしろと言った話のこと?
別に家康に遠慮する必要なんて元々ないじゃん。金を出して発注した大名に納品してるだけなんだから。
主君である信長マンセーの書なんで、基本的に旧織田家の同僚から記事に出してやるからと金出させてるだけだし、
家康に読ませるために書いてるわけじゃない。
そもそも金を出してる輝政に対してはいろいろ配慮してて
池田自身も売文家の太田に指示してるのはところどころに現れていて
家康の次女の督姫を貰ってる関係から、家康の息子の信康のことを突然狂ったと書いて歪曲してる。
そう安土日記の記述から改変してて、家康をかばっているように書いてるのは単に金を出す池田家への配慮からでしかない。
太田が池田に属していたと言うのも小牧長久手で池田陣の備えを立て直したと記してるだけ。
本能寺の変後に加賀国松任で蟄居していたが秀吉に招かれて仕えたとされるから
実際には池田に仕えていたのではなく、秀吉に仕えて池田陣に配属されただけ。
朝鮮出兵や醍醐の桜見において秀吉側室の松の丸殿警備をしてるし
だから太田は池田寄りに書く必要性は本来まったくないのに売文で曲げた。
秀頼が死ぬ2年前に太田は死んでいるが、晩年には大坂天満で隠居していたが
金に困ってたようで孫の宗古が前田家に仕官するまで貧しかったとされる。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
論文で二次史料を論拠にして話を展開するヤツはいない。軍記などは参考文献一覧にも出てこないのが普通。
太田の信長公記と言うタイトルは明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で
尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に太田自身が信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。
そうしなければ双方を呼び分けることができない。
そして現在で太田の信長公記を15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。
そもそも甫庵信長記を信長記なんて読んでる一時史料は存在しないし、
呼び分けるために甫庵の信長記と呼ぶのは当たり前だろが・・・・
>>つまり牛一の信長公記が信長記であるという証拠が出た時点で、甫庵の信長記もまた信長記とされるのは当然
なんて意味不明なアスペ理屈をお前が妄想して「思った」って、当時の人はわざわざそんな意味不明な思考はないわ。
結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの??
190 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:17:56.54 ID:IDfSvz9k
むしろ信長記よりもリアルタイム世代に大好評だったのが江源武鑑。
江源武鑑が1621年(1615年に大坂夏陣)に出版されて好評な為に増版が繰り返されて
信長公記なんかより信憑性が高いと人気になり盛んに当時の人々が読んでいた。

江源武鑑の記述における六角家系に対して批判が始まったのは当時を知らない人しかいない1700年代。
江戸時代中期に六角子孫同士の嫡流争いになり
江源武鑑作者が故人となって反論不可能なことを良いことに
あれはウソと一方的キャンペーンで声高に喚いて、
自分の主筋の佐々木高重が嫡流だと建部賢明が主張して回ったのが理由。
しかも江源武鑑初版が出版された頃に生まれた人間と著者を誤認した挙句に
沢田源内と佐々木氏郷を同一視するデタラメの三重奏w
さらに完全な別人故人なのに、建部賢明は生きてたら
俺がぶっ殺してやったのに悔しいと言って騒いでまわるDQNぶりを撒き散らしていたら、
今度は「いやお前んトコも庶流だろ捏造すんなや。義治は大原高定に家督譲ってねぇよ。
だいたい勝手にうちの史料をいろいろパクり引用すんなよカス」
って佐々木定賢に激怒されるほどの破綻人格w

秀頼に仕えていた捏造信長記の著者で有名な売筆家太田牛一の太閤軍記
天皇の諒闇中に狩りをした秀次を激しく批判する京童の落首を引用 
そこから殺生関白と秀次が呼ばれるが、そもそも上記の話は捏造。
ウソまで作り出して秀頼の統治を正当化するキチガイ
川角太閤記では秀次が讒言を受けたと記述する。

川角太閤記
田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が当時の武士から聞いた話をまとめた「聞書」である。
証言が収録されたものには明智光秀の旧臣でその後前田利長に仕えた山崎長門守や、
豊臣秀次の馬廻であった林亀之助などがおり、
本能寺の変や豊臣秀次事件などに関する史料としてしばしば引用される。
【疑問】スレ立てるまでもない質問12【戦国時代】
285 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:21:19.74 ID:IDfSvz9k
まだキチガイ反日織田厨の自演は終わらないのかよ・・・
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
3 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:33:07.18 ID:IDfSvz9k
江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。
風向き
作付けどころか間もなく甲斐で大規模一揆が各地で発生するほど修羅場化
勝頼も浅間山がある真田領を避けて小山田領へ避難。

俺、渋川市郊外住みなんだが、(地元出身の長尾景春スレで織田厨に絡まれてるのも俺)
浅間山の堆積物調査は1108年の上野国壊滅記述を元にしていて、
浅間山東側の調査をしてるだけだから、西側に噴煙が流れた場合はわからんのよ。
んで、3層の噴煙層がある以上、確実な噴火記録と照らし合わせると、
1108年噴火記録と1783年天明噴火記録の層との間に、
もう一層あるので、1108年と1783年の期間にあと一回噴火があるのは確実で、
あとはそれを文献史料で当てはめて確定しなきゃならないわけ。
しかし、1596年の噴火は浅間山によるものとは限らず、岐阜白山や九州の阿蘇山や霧島山の噴火説が並存してる。
特に同年に霧島山が噴火しているのは確定してて、浅間山説は不利。
というのもこの時の噴火では京から見て〜方角の空が赤く光っていたなどの視認が全くされておらず、噴火方角すら全くわからない。
そうなってくると武田滅亡のキッカケの際に噴火記録が存在するなら、
それが1108年噴火地層と1783年噴火地層の間にある噴火地層であるのだろう。

なるほど。三層の堆積物が発掘され、
それぞれ明確な噴火文献史料を当てはめて年を確定する作業をしていくわけか。
そして1108年と1783年の噴火が一次史料だからそれぞれに当てはめて確定させた結果、あと一層だけ?だったわけだ。
しかし武田滅亡時噴火一次史料を当時は知られていなかった為に、
わからずに霧島山噴火を浅間山噴火なのでは?と疑心暗鬼に当てはめてしまったと。
さらに上野国壊滅記述の調査のため浅間山東側斜面しか発掘してないから風向きによって西側方面の噴煙の方が凄いことになってたらそれはわからないと。
まあ研究資金との関係からある程度当たりをつけて発掘するのは止むを得ないわな。
早川氏の研究
北東山麓の1108年スコリアと1783年軽石の間には薄い軽石層(A')が一枚挟まれている.
この軽石の噴火年代は,京都に降灰降毛があった1596年夏あるいはその前後だった可能性がつよい.
1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない。
早川氏の書いてるの読むと、そもそも東側斜面と言うより、浅間山東北方面の山麓しか調べてないところと
GoogleMAPを照らし合わせると、東北山麓にあるゴルフ場か牧場の辺りの整地の際にやっただけみたいだなあ。
武田滅亡時の噴火が南西の大分県や京から視認できたことを考慮するに、全く正反対の方を調べただけなんだな。
それじゃ噴火威力を正確には出せ無いな。
少なくとも天明の噴火は、京から視認されてないから、1783年の噴火よりも武田滅亡時噴火は威力が高かったのは確かだろうね。
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
4 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:34:50.36 ID:IDfSvz9k
三層か。すると当代記の記録は天正10年の内容だったが、後世の伝聞で年代誤伝があった可能性が高いな。
たしかに。そういう意味でいうと浅間山の南や南西の発掘調査をしてもらいたいね
あの〜そろそろ織田厨くんにか下記の解説をしてくれませんかね?
たしか織田厨くんは「500年程度の炭素年代測定なら1年刻みで余裕でわかることくらい覚えておけ低学歴無知が」
などと大見得を切っていましたよねw
それで私は下記の噴火の年をどう測定して確定させたのか説明を要求しましたよね。
1644年 2月(正保元年)噴火。
1645年 2月,5月(正保2年)噴火。
1647年 2月,3月(正保4年)噴火。
1648年 3月(慶安元年)噴火:1m以上の積雪を融解,追分駅を流失,夏にも噴火。
1649年 (慶安2年)噴火。
1651年 (慶安4年)噴火。
1652年 (承応元年)噴火:噴石のため山麓焼ける。
1655年 (明暦元年)噴火。
1656年 (明暦2年)噴火。
1657年 (明暦3年)噴火。
1658年 (万治元年)噴火:鳴動。
1659年 (万治2年)噴火:鳴動,降砂。
1660年 (万治3年)噴火。
1661年 (寛文元年)噴火:年間数回。
織田厨くんは「だがは天下の東大様による科学的データまで否定するのかな? 」とも言ってましたのですが、
上記の噴火を証明する科学的データをまだ教えてもらっていませんが、織田厨くんはどこのどのデータをみたのかね?
早川氏のHPを読んでも一切、炭素年代測定なら1年刻みでわかる&東大の科学的データなんて載ってませんがおかしいなぁ???
結局のところ織田半島人にとって議論とは、
勝ち負けの争いと言う矮小なものでしか無いのが判明したなあ。
日本人は史料を元にどちらの意見がより歴史的事実として正確なのかが重視されるんだがね。
織田半島人は明らかに最初から結論を決めているから、
いくら議論し、史料を出して論証しても無駄なんだわ。
だって感情的に受け容れられない結論なんて最初から拒否するつもりなんだから。
織田半島人にとって自分に都合が良い結論へ誘導する為には曲解捏造デッチ上げと手段を選ばず自作自演で多数派工作をして勝ち取るもんだと盲信してるんだよな。
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか。
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、
浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
6 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:40:28.85 ID:IDfSvz9k
広島と京の距離と、浅間山とアルプス山脈を挟んで京との距離はそれほどかわらない。
京で広島上空で爆発した原爆の光は観測されていない。考えようによっては原爆よりも巨大なエネルギーが浅間山から噴射したともいえる。
また桜島の噴火は福岡からですら見ることができないので、まったく比較対象にはならない。
早川由紀夫氏 1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない
早川由紀夫氏の引用文献一覧を覗くと、 完全に天正10年の浅間山噴火記録が書かれる晴豊公記や多聞院日記や宣教師の記述があるのを明らかに知らないで書いてる。
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じる。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解。
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
>>956のような甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火が武田滅亡の怪異とか噂されちゃ士気なんてダダ下がりだろう。 ましてや大分県まで見える超噴火じゃ戦ってる場合じゃないだろ。
それを天皇の神威に変化させることで信長暗殺できる環境が成立したのかも知れんね。
特に誠仁親王の妃を姉妹に持つ観修寺晴豊や光秀と親しい吉田神社や、
本能寺の変寸前に太政大臣を突如辞めた近衛前久や延暦寺らが首謀者だろうね。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
フロイスの日本史にも東方が非常に明るく恐ろしいばかりに赤く染まっていた現象が、
豊後からも同様に観測されていたことがわかったと書いてるじゃん。 当時の宗麟が宣教師を大分県で保護していたから教会があった。
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
7 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:43:15.80 ID:IDfSvz9k
2/3 暦の問題で信長が今年の美濃では12月閏年だと朝廷に申しいれてきてくる
(中国戦国時代に各王が持っていた元号を始皇帝が奪い取り刻の支配をしたように信長は朝廷から刻を奪おうとする)
濃尾之暦者である賀茂在政の意見を朝廷は拒否するも、そのまま武田攻めでとりあえず有耶無耶(噴火をネタに時間を稼ぐことになる)
2/7 村井貞勝がしなの国を半分などとデタラメを吐いて威圧。
2/9 秀吉も中国四国を平定したと誇張。
2/11 村井の配下であるはんとり六兵衛が庭田重保の邸へ強奪に入るなど公家を威圧(京を恐怖で支配)
2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
2/25 竹内殿(信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕で信玄を官軍に、信長を朝敵にした人)
による天神講(3/2夜執行?)に勧修寺晴豊が出席(延暦寺の大ボスと勧修寺の秘密会談。信長への叛意相談か)
3/2 織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/4 明智軍が信濃に出陣する信長の警護のためちりちりに行軍。兵たちはしほしほとしたテンションだった(明智軍やる気なし。叛意漂う)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)      
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
また信長暗殺計画の始動も浅間山噴火の天罰神威をロジック背景に延暦寺や観修寺や吉田神社らによって進められたのではないか。
【平成26年】 黒田孝高総合スレ 3 【大河の主役】
65 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 11:48:26.87 ID:IDfSvz9k
黒田長政と蜂須賀の娘とのラブロマンス
しかし悪魔家康によって無理やり引き裂かれる愛・・・・
次回!長政の決断!お楽しみに。
結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの??
196 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 14:49:41.15 ID:IDfSvz9k
重要文化財指定されている池田家文庫蔵「信長記」には
きっちいと「不慮に狂乱」と信康の話は出てくるし、
天正10年の武田征伐に参加してない輝政が参加しているなど
出資した池田家への太田の配慮が見える。
そんで、この池田本を底本として写されていくうちに文書改変を
それぞれの写の所有者によってなされていっただけ。
この池田文庫本と建勲神社蔵が2大底本で二系統に分岐するl
そしてバカ角川書店がマンセーして出版したのが、この建勲神社本を低本にした陽明文庫本で、
これに首首を加えたものが現在一般人が「信長公記」と読んでるもの。
この建勲版慶長15年以降完成といわれている。
さて安土日記だが、これも池田系であり、これは慶長以降の写しであり、
天正6年から天正7年8月までしかなく、安土城について詳細に記述この発注者は安土城建設に関係ある人物だろう。
これには逆心之雑説申候と信康事件を論評していたりする(尊経閣版)
しかし安土日記和学講談所本では不慮に狂乱と表現が変わっている。
また陽明本版ののちの写しになると事件そのものの記述が消える。
これは牛一死後だいぶ経ち江戸時代になってから徳川家臣団が受け取った信長記なのだろう。
太田牛一旧記は陽明文庫系で慶長14年版で本願寺との戦いがやたら詳しく、発注者が本願寺との争いに関係していると言われる。
尊経閣文庫蔵「信長記」これは慶長18年で牛一死去年完成で最後の書。
これも池田系のものではあるものの、家康を呼び捨てにして書いていたり、
信康の妻である信長の長女を岡崎殿と敬称しているなど、家康貶しと信長賞賛を表している。

このように発注者の意向を重視しており、家康が最高実力者だから遠慮して書くなどと言うことはないし、
お前は池田系本の比較がまったくできてないで「差し替えている」などと思いつきのデタラメを書いている。
ちなみに首巻がある天理本は除外した。
結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの??
197 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 14:57:47.60 ID:IDfSvz9k
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1994年から98年にかけて全7巻を出版した国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成の完成後は、
(これの功績は計り知れない評価とともに、とても完読することは無理な膨大な圧倒的情報量)
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮もあり、
桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている。
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしているからと指摘されている。
しかし市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり、軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
12 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 15:10:10.62 ID:IDfSvz9k
織田厨はこれまで一切、一次史料の根拠を提示することなく
事実を受け入れたくないという理由だけで誹謗中傷で否定を繰り返しているだけ。
そこに根拠は皆無で完全に思いつきでケチをつけてるだけのいつもの自慰。
伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
92 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 15:26:58.57 ID:IDfSvz9k
趣味の戦国時代板か
学問・文系の日本史板か
テレビ等の大河板
あたりで聞いた方がいいと思う。
ただ女性人名はほとんどわからないと思う。
国会図書館で寛永諸家系図伝を調べるとか方法がないわけじゃないけど。
ひょっとしたら三重県史や鳥羽市史や
九鬼家が残った摂津国三田藩や丹波国綾部藩のあった市町村史を漁ればわかるかも。
伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
93 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 15:30:33.19 ID:IDfSvz9k
つかここ戦国板だったわw
なにか他にヒントがないと難しいな。
言伝えだけで事実かわからんケースもあるし。
信玄・謙信があと半年〜1年くらい長生きしたら
126 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 15:53:16.11 ID:IDfSvz9k
>>119>>121>>122
完全に自演発狂しながら織田厨はデタラメを書き散らして喚いているな。


二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。
天正10年の武田攻めを語るスレ 5
14 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 16:06:47.28 ID:IDfSvz9k
しかし誠仁の妻の兄である勧修寺晴豊は祖父の尹豊・子の光豊とともに
元亀3年末に信玄を官軍に、信長を朝敵にする活動をした
比叡山延暦寺の大ボス166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕と
信長が武田征伐に集中してるドサクサに密談しているのであったw

比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
本能寺の変の黒幕は朝廷だった!Part2
7 :人間七七四年[sage]:2013/09/17(火) 18:38:38.88 ID:IDfSvz9k
しかし誠仁の妻の兄である勧修寺晴豊は祖父の尹豊・子の光豊とともに
元亀3年末に信玄を官軍に、信長を朝敵にする活動をした
比叡山延暦寺の大ボス166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕と
信長が武田征伐に集中してるドサクサに密談しているのであったw

比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。


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