- 初期設定がチートな大名
309 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:19:12.41 ID:hLk578s2 - 甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。
双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。 この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。 >>308 信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏) 実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。 さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら 国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。 家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し 混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。 東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。 こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから 甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。
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- 【疑問】スレ立てるまでもない質問11【戦国時代】
839 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:23:41.77 ID:hLk578s2 - 池田本の時点で首巻はもう完成していたの?
池田本にさらに後から追加されてるんじゃないか? なんせ池田本は大田本人が池田に金を積まれて 池田が参加してない戦にも参加したように書いたり 池田マンセーで書き換えたもんだからな。
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- 【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その16
680 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:41:42.58 ID:hLk578s2 - 6才で死んだ実子の羽柴秀勝 (石松丸)もいるから種無しってことはないし
16:人間七七四年 08/13(土) 21:39 fciW2Rm8 >>11 豪姫の姉って誰のこと? 宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。 毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。 しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w 残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで 一次史料には無いと否定してるわけだがw 相変わらず在日毛利厨って無知だな。 22:人間七七四年 08/14(日) 15:00 p7pjEErP [sage] >>11>>19 摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが? 摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。 そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ 佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。 その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。 しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは 1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。 しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、 のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。 元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから 秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。 >>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳 >>現代の年齢の数え方だと11歳 これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に 秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw こんなの前田家の保身のための人質なんだから 糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。 在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。 26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。 衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。 30:人間七七四年 08/16(火) 12:48 aZlCHDd0 [sage] >>1 好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。 そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。 むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。 38:人間七七四年 11/18(金) 20:44 umlTHGZA [sage] 女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。 秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、 実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。 42:人間七七四年 08/23(木) 10:51 4cgiEJma [sage] 中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。 秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。 秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。 それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。 47:人間七七四年 06/22(土) 10:56 5xspctLN そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。 宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、 嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
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310 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:48:19.93 ID:hLk578s2 - 信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ
塩山向嶽禅庵小年代記 信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評 「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」 武田研究で有名な上野晴朗氏 「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、 北条と今川の友好関係が破れた。 このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、 対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」 信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。 これは道三や信長とも共通した性格であろう。 一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。
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311 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:49:32.83 ID:hLk578s2 - 信虎は在京守護として、
ほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、 甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。 越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、 信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた。 権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記) 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、 カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。 勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。 それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で 見違えるような国にしたんだよな。 織田厨の捏造歪曲の実例 信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり 完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から 災害記録がなくなってしまうのが史実です。 そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され 数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい 本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、 姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ 武田には徳役という税制があった。 これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。 これを当時は悪政と言っていたが、 これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。 逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して 借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。
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- 【政略】戦国大名の領土の広げ方【戦略】
121 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:54:08.71 ID:hLk578s2 - >>120
実際にそんなもんないから出せるわけがないもんなwww
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- 斉藤道三信長秀吉の過大評価は司馬遼太郎のせい
80 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 11:56:25.44 ID:hLk578s2 - そう。こいつはいろんなところでウソ史料とか書いてる。たとえば下記
逃亡癖 つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw 8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC >>6 あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね? 知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ? 何が目的なの? 10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h >>8-9 好き勝手言うな 書状をこちらで読めない状態ではコメントできん 週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ >>根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。 172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N 手元にコピーがないんで何日か待ってろ 859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage] 天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状 天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書) 上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、 書状内容の転記と共に書いてください。
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- 斉藤道三信長秀吉の過大評価は司馬遼太郎のせい
81 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 12:00:26.21 ID:hLk578s2 - >>73
>>天正3年5/15奥平書状 おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ… >>毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。 信孝相手にどんだけ俺が苦難と苦労してたと思ってんだ〜みたいな文章で敵兵力を吹いて誇張して、 自分の正統性をアピールしてるにすぎんでしょ。 そもそも褒美すら満足に出せず、国人に欠所地を自分で探してきたら、 そこを加増してなるとか言ってる毛利にそんな経済的余裕ないし、 そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。 464:人間七七四年 06/26(水) 22:05 n85QlNob [sage] いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で (信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか書いてたり) さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし、 しかも信長が岡崎に着いた日も間違えてる書状の写なんて… 検討の余地ありって言い回しを使うのは、 それを持つ人の手前、はっきり断ずることを避けて配慮してるからだし。 アンチ秀吉キチガイのお前の主張はいつも無理やり過ぎるわ。 469:人間七七四年 06/27(木) 13:04 pmVJsRAu [sage] >>465 戦国期文書で「卿」が使われていたとする証明になる 一次史料を出してみて 471:人間七七四年 06/27(木) 14:40 pmVJsRAu [sage] そだね。足利軍30万騎とか書いてあるね。 太平洋戦争のころにそんだけスーパー兵站力があればよかったね。 474:人間七七四年 07/23(火) 18:15 Ctti6iUD [sage] >>461 天正3年5/15奥平貞能→奥平信昌宛書状写どころか 実は奥平氏系の書状には怪しいものが多い。 というかそもそも長篠の戦いにおける書状も結構に怪しいもんが多い。 5/19付け家康→石川伯耆・鳥井彦兵右衛門宛書状家康の花押が 天正7年以降のものなので、長篠合戦譚から作成された疑惑が出されたりと 愛知県史での収録の時に大問題となったが、偽との決定的証拠もなくグレー判定だった。 しかし播磨良紀氏は偽書状とする決め手がなく、県史での議論で押し切れなかったことに悔しさを滲ませている。 また天正3年7/20信長→岡三郎宛書状写(馬場討ち取り)なども偽書状とされてる。 長篠の戦いについては大きく見方を変える必要がある虚構性の高いものだといえる。 まあ有名な戦に関する書状は価値が高いし、先祖がそれに参加してるとなると家の名誉だから 捏造書状は作られやすい。 475:人間七七四年 07/25(木) 12:03 5D3pb/kR [sage] まぁ写しの時点でな。 写しって言っても軍記や家譜に書かれてるのは 非常に疑わしいから。 特に関が原軍記大成に出てくる秀秋に関白職を譲る書状の写しとか 関が原決戦を前に秀秋の内応を誘う東軍の書状とか完璧な偽書状写だし。
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82 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 12:00:52.86 ID:hLk578s2 - 京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してる証拠として 叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを 年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてるし、 兵力に関しては過大に吹聴してるのを聞いて書いたものより、 むしろ公記の方が正確。公記の兵力数は朝倉方などの記述と近い場合なども多い。 本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが (天王寺の戦い・・・公記には数千挺の鉄砲に狙撃される中を信長が突撃して大勝利したとデタラメを吐く) 5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて 相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし (同時期の柴田書状には能登・加賀・越中を織田が平均したとデタラメを吐いてる) 姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。 また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw) そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。 長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。 長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作 5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと 誇張しまくりを書いていて5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで 数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw) つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw 実際の武田軍の損害については 実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた 5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。 (それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。 と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が 甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか) 5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では 「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。 ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか 「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。 さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので (6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。 織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている 徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。 家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね などと書いていて討取り数にまったく触れていない。 実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w 実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
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83 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 12:03:28.39 ID:hLk578s2 - そう。こいつはいろんなところでウソ史料とか書いてる。たとえば下記
逃亡癖 つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw 8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC >>6 あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね? 知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ? 何が目的なの? 10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h >>8-9 好き勝手言うな 書状をこちらで読めない状態ではコメントできん 週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ >>根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。 172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N 手元にコピーがないんで何日か待ってろ 859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage] 天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状 天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書) 上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、 書状内容の転記と共に書いてください。
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