- 【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その16
672 :人間七七四年[]:2013/07/30(火) 00:25:22.28 ID:Obs9ybc0 - はぁ?ちゃんと秀頼がいたけど?
秀次も立派に関白としてやってたし秀吉が一族殺すような馬鹿だから滅ぼされただけ
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675 :人間七七四年[]:2013/07/30(火) 01:06:10.72 ID:Obs9ybc0 - >>674
はいはい馬鹿の極地だなお前。 秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか さすが在日w
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677 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 01:20:05.00 ID:Obs9ybc0 - >>676
そんなもんない。河原ノ者〜とか軍記と妄想で書き連ねたデッチ上げ本くらいでしかねぇしw
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- 斉藤道三信長秀吉の過大評価は司馬遼太郎のせい
85 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 13:01:05.78 ID:Obs9ybc0 - >>81
>おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ… 検討の余地ありは=偽書状ってことではない。本物でない可能性ありってだけだろ >> あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。 本当にそれだけいるかどうかはともかく一次資料でいいなら上記のようにちゃんと大軍動員してる例はあるわけで。 >>そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。 有利な状況や大軍があっても味方を見捨てたりチャンスをむざむざ無駄にするのが毛利。 中国口の播磨但馬の攻防のときとか関が原の時とか本能寺の時とか見てれば毛利が天が与えた幸運や超有利な状況でも何もせず負ける馬鹿なのは 史実みてればわかる >いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか >書いてたり)さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし そんな妄想いわれてもな 偽書状と判明とか書いてるならともかく検討の余地ありだけでは偽ってことにはできずむしろ 今のところ本物だが偽かもしれないってだけだろ そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ 織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし 信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
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86 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 13:02:37.82 ID:Obs9ybc0 - ID:hLk578s2はいろんな所で嘘を書き連ねまくってる馬鹿
>>毛利軍自体が実は来てない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
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- 斉藤道三信長秀吉の過大評価は司馬遼太郎のせい
87 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 13:03:49.25 ID:Obs9ybc0 - >>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、 去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
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88 :人間七七四年[]:2013/07/30(火) 13:04:27.60 ID:Obs9ybc0 - お前の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を >帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。 >看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。 >戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。 >国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ >戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。 >また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。 こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw 秀吉厨のデタラメ >>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい >>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」 天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる 毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる 柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる 手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず 国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw 一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw 軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ 織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし 信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など) 足利軍30万騎とか書いてあるね。 多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし 戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに 兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
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89 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 13:05:44.01 ID:Obs9ybc0 - >>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲 天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ 天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す 天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、 尋で、宗治、同城を復す、 天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記[参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記[参考]柏崎物語 >>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。 >>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど >>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず >>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて >>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。 >>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。 >>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって >>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。 >>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集 萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで 岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も 毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で 七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
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90 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 13:06:36.38 ID:Obs9ybc0 - >>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、 去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
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- 【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
2 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 14:59:20.37 ID:Obs9ybc0 - 小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北 浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる 秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の 二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず 信雄方に奪回されてる) 伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽 など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため 伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回 長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉 信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。 秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる 天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが 直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と 木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており 普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで 必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり) 和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら 信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である 11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので 講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中 戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態 んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回 ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力 どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない 3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで 楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記) そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
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3 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:00:01.44 ID:Obs9ybc0 - >>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって 1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し 結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww >>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう 史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ 前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし 佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから 優勢になっただけだし 寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから 北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。 普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。 韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実 >>家康を倒すことが主目標ではない お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな >> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、 秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の 二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず 信雄方に奪回されてる) >>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで 秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛 と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw 秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw >>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし 伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽 など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため 伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回 長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉 >>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり 割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ >>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので >>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら 時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、 いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら 家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。 (天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
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4 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:11:04.24 ID:Obs9ybc0 - >>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、 去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
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5 :人間七七四年[]:2013/07/30(火) 15:11:38.19 ID:Obs9ybc0 - >>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲 天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ 天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す 天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、 尋で、宗治、同城を復す、 天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記[参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記[参考]柏崎物語 >>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。 >>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど >>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず >>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて >>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。 >>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。 >>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって >>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。 >>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集 萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで 岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も 毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で 七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
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6 :人間七七四年[]:2013/07/30(火) 15:12:05.03 ID:Obs9ybc0 - お前の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を >帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。 >看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。 >戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。 >国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ >戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。 >また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。 こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw 秀吉厨のデタラメ >>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい >>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」 天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる 毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる 柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる 手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず 国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw 一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw 軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ 織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし 信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など) 足利軍30万騎とか書いてあるね。 多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし 戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに 兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
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7 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:13:36.02 ID:Obs9ybc0 - >>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、 去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人 所、羽築・荒木所へ… 天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、 天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、 尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、 7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由 7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条 7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条 10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、 12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、 天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、 彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、 因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田… 天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、 御粉骨之段、神妙被思召通、 天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
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8 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:14:31.72 ID:Obs9ybc0 - ID:hLk578s2はいろんな所で嘘を書き連ねまくってる馬鹿
>>毛利軍自体が実は来てない 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略) 則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段… 天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報 天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書) 7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書) 6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書) 8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書) 天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書) また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候… 然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
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9 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:16:11.84 ID:Obs9ybc0 - >おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
検討の余地ありは=偽書状ってことではない。本物でない可能性ありってだけだろ >> あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。 本当にそれだけいるかどうかはともかく一次資料でいいなら上記のようにちゃんと大軍動員してる例はあるわけで。 >>そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。 有利な状況や大軍があっても味方を見捨てたりチャンスをむざむざ無駄にするのが毛利。 中国口の播磨但馬の攻防のときとか関が原の時とか本能寺の時とか見てれば毛利が天が与えた幸運や超有利な状況でも何もせず負ける馬鹿なのは 史実みてればわかる >いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか >書いてたり)さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし そんな妄想いわれてもな 偽書状と判明とか書いてるならともかく検討の余地ありだけでは偽ってことにはできずむしろ 今のところ本物だが偽かもしれないってだけだろ。そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ 織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし 信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる >>家わけ日記に出てる文書以外の毛利の史料は一次資料扱いされておらず偽文書 萩藩閥越録や毛利家日記を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで 岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も 毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で 七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい 上月城下合戦のソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋で全て花押がついてる。 山口県史資料編中世三巻凡例 2ページ目 正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし 近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした 現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に 何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。 ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず 偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
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10 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:20:40.51 ID:Obs9ybc0 - >毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
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11 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 15:21:55.32 ID:Obs9ybc0 - >そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集) 北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能 >>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて) お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える 享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4 四×20万で80万くらいいた事になるなw >>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や 北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当 >農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに 農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている >>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類 >(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない 根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 >>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w 秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな >>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換 当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
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12 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:33:32.89 ID:Obs9ybc0 - 84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに 滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明 陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる 松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる 伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる) 3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。 この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、 八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。 秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、 稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、 越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、 生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで 10万かそれ以上としている。
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13 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:36:36.62 ID:Obs9ybc0 - この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状) 長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので 時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり 秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。 この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。 8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め などと一貫あいて信雄家康への討伐を意思表明してる
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14 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:39:39.56 ID:Obs9ybc0 - >秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある >小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた) 根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙 >>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう) 北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ 天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし >城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。 >早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww 何が問題なんだ? >下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。 >ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。 それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから 一点に集められる兵力は減るのは当たり前 >>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。 根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類 >(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない 根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。 20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。 >つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww 後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね >前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる 。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw 根拠なし >3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw) 300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか 相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め) >松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw 北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても 山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、 それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな >6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw 後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
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- 【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
15 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:41:29.53 ID:Obs9ybc0 - 単に織田家を信長や信忠が殺され光秀が逆賊の汚名追ったところを火事場泥棒しただけなのが秀吉
前スレ http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1365849357/l50 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ 秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
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16 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:44:20.51 ID:Obs9ybc0 - 基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである 公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。 83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき 関係を構築しうる二重性を備えていた 京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど 小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな >>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで 尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても >>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。 取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで 東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。 >>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは 高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り >>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、 ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの 報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった 犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで 楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。 そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
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17 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:48:32.95 ID:Obs9ybc0 - >>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない >>士気が崩壊した信雄軍という状況は 元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉 >>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。 秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる 批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と 中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され 尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。 さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記) 当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり 不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに 羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で 基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず 諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉 >>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、 震えていたなんて史料は存在しない >>士気が崩壊した信雄軍という状況は 元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉 >>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。 秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる 批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と 中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され 尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。 さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
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18 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:51:03.94 ID:Obs9ybc0 - 上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情。顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停を
はかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの 家康(徳政連発と譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいある であろう圧倒的優位な状況でありながら軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉 そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる 完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、 信雄より種種懇望があったので 講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っているまた浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中 戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回 ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し 兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため& 池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで 楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で 苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
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19 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 18:54:47.76 ID:Obs9ybc0 - >つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。 策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから 家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿 >つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに >竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。 竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理 >しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり >7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw 秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから 滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ >すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として >南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。 >他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。 当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ >秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり >それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。 戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ 3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ >でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。 信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ >羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。 それはあんたの主観です >まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ? 秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが 10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと 方針変更を伝えているだけだし。 >そんなの去勢張ってるだけ 真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている >しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが 限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
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20 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:19:45.76 ID:Obs9ybc0 - >秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として 1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて 一気に三河方面に侵攻されてアボーン >長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。 蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている >加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。 加賀の井に行くには敵城の また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため 家康からすれば死地にいくようなもの >7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから 強風吹いたら無理にきまってるだろ >5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。 小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前 秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である 秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている 家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう >>蟹江合戦が滝川の単独行動 長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環 滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる 6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように 6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた 6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し 上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく >>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。 家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字 その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
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21 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:23:32.22 ID:Obs9ybc0 - ●二重掘合戦
細川家記 3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、 仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び 井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を 分ヶ守らせらる…(省略) 秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、 小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗 堀久太郎…(省略) 五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、 家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、 芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略) 長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を 追い返し、勢ひつくのみならず、… 徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、… 二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々… 二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、 秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな。秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。 何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな。しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や 大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀 (最期の二つは小牧山城から真東)これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を 築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。家康から 見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める。あと秀吉は 中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだがここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる 一柳直末にあてた書状から明らか。単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う。野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならない のは自明の論理で、あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら戦場の変更とか転進 とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし 支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。
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22 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:27:20.32 ID:Obs9ybc0 - 結局何一つ有効な手打てないままだらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず 滝川が作った大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てた だけ。当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなか っただけ。7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてそれを秀吉のアホ作戦で台無し にして奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを 小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々 とした行軍を無謀にもさせた。奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのにすぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させ て間に合わずむざむざ家康を逃がした。正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり 軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手に この醜態ってw
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- 【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
23 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:30:15.28 ID:Obs9ybc0 - 史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語 【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条 【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、 鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
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24 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:35:46.19 ID:Obs9ybc0 - 豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。 所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実 秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ 所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。 秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい 何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし 秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな 大嘘もいいとこなんだが。 松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし 小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに 結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果) 光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな ○長久手合戦の戦死者は1万人以上 4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人 戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市 梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎 森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太 また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが 文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており 3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
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25 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:41:29.24 ID:Obs9ybc0 - 京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦 の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね 秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており 留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ 和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り 敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w 尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw 日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記) 小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない →小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって… 付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を???? 加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った →千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など) 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず… 4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw 家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に 付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。 なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって… 加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる 尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw 木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ 家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw 9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明 信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において 懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが 断ったといってるがどちらが正しい? 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった 9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
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26 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:45:26.27 ID:Obs9ybc0 - >萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書 根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄 >また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、 >武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。 そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎 >もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、 そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。 普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ >>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 >>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。 >>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。 それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな >毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
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27 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 20:52:55.38 ID:Obs9ybc0 - >>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない >>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから 根拠は? >>退却はそれ以後の話なわけだ そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。 >>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ >>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。 顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる >>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。 なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない >>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、 >>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城 >>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。 根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ >>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。 根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある >>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。 んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明 >>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、 >>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。 毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ >>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ 全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ 以下が正しい日付年表ね 4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ 5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む 5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、 5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、 5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、 5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、 仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、 5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、 6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す 6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、 7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る 7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、 又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
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29 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:03:56.33 ID:Obs9ybc0 - >>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、 根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ >>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww 児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前 >>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ >>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www 根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄 >>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、 >>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。 そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎 >>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、 そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。 普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。 >>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw 顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如 >>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。 >>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。 それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても >>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。 >>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど >>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず >>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて >>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。 >>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。 >>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって >>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。 >>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww こんな記述どこにもねぇわカスw
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30 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:06:53.20 ID:Obs9ybc0 - >>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない >>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし 6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される >>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。 蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ >>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく 普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ >>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。 そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ 尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない >>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。 家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い >>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で 三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ >>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし >>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
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- 【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
31 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:10:15.91 ID:Obs9ybc0 - >>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。 この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状) 長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので 時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる 6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり 秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
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32 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:13:03.77 ID:Obs9ybc0 - >>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。 当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない >>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして 攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに >>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。 傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ >>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。 加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン >>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を 失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ >>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし 戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入 なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス >>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。 兵力差が圧倒的なんだから当たり前 >>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。 話がまとまってたなんて史料はない >>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし 6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
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33 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:14:16.78 ID:Obs9ybc0 - >>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし 秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから 三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要 直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明 >>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない) その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題 >>当然のように危険極まりない行為をしたために 秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない >>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら 九鬼が兵出すわけないだろ 伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ >>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの? >>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り 細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある >>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、 >>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、 神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし >>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。 滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事 秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事 から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている >>滝川が自分の意思で調儀しただけで、 >>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて 全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ >>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために 危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ 蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし >>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて 秀吉が後詰しなかったからだろ >>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて >>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw 秀吉は其の間なにやってたのって話だわな 佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉 >>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが >>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。 長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで 5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
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34 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:15:04.15 ID:Obs9ybc0 - >>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた 二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる 愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが 蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能 蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や 領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが 前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要 >>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。 >>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、 >>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。 この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状) 長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので 時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり 秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。 この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
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35 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 22:16:38.43 ID:Obs9ybc0 - 8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め >>蟹江合戦が滝川の単独行動 長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環 滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる 6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように 6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた 6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し >>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。 家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い >秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして 小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として 1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて 一気に三河方面に侵攻されてアボーン >長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。 蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている >加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。 加賀の井に行くには敵城の また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため 家康からすれば死地にいくようなもの >7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから 強風吹いたら無理にきまってるだろ >5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。 小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前 秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である 秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている 家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
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36 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:30:32.75 ID:Obs9ybc0 - >>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。 傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに 放置して他地域にいけるわけないだろアホ >>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに >>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。 加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ 竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理 >>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい >>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。 竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。 そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから 勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉 >>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw 蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ 伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし >>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として >>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。 南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと 池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ >>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。 勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで >>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は 天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や 天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況 が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と 軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉 >>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ >>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。 そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ 石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし >>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ >>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな 家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜) 残りは信雄の兵力だし >>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。 7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
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37 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:31:22.14 ID:Obs9ybc0 - >>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方 家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して 加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン >>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、 滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう >>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。 滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川 7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ 秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態 >>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。 これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより 貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの >>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。 そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理 そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉 >>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。 戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても >>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。 あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問 9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし >>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。 ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ >>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている) 秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし 家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉 >>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており 家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる 元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな >>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。 そんな史料にない妄想いわれても >>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、 野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない 木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方 >>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。 7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない >>無条件降伏を飲む形で集結 母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
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- 【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
38 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:32:51.39 ID:Obs9ybc0 - >>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。 傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに 放置して他地域にいけるわけないだろアホ >>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに >>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。 加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ 竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理 >>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい >>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。 竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。 そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから 勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉 >>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw 蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ 伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし >>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として >>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。 南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと 池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ >>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。 勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで >>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は 天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や 天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況 が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と 軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉 >>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ >>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。 そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ 石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし >>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ >>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな 家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜) 残りは信雄の兵力だし >>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。 7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
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39 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:35:11.28 ID:Obs9ybc0 - >しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
秀吉は家康や信雄を野戦につり出して大破する目論見があったのに 家康が来ないからまんまと狙いが外れた 木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ >一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。 当たり前。場所的関係から言って竹鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから そんな芸当神でもないと無理。逆にこの2城取っても信雄領国で崩壊が起こっていないのが戦局に対して影響がなかった事をあらわしている >一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、 そんな資料ありません >すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。 滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ >9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。 このときの和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った >和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し >信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。 ソースは軍記のみです >秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。 >秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。 長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる >(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え >清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。 家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている >もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。 >秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある) 信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ 三河物語や当代記に書いてある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから 継戦不可能といわれても根拠なし >これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。 降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど) >重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。 ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ >(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている) なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな >三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており >家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。 家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう 574:名無し曰く、:2012/05/06(日) 15:57:15.33 ID:3YvKmTkl >信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。 カチカチになっていたのは秀吉の方 7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの城郭をガチで攻め切れず 家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと >秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、 秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって 釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった >家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。 秀吉は神戸・松ノ木・長久保・二重掘・蟹江・戸木と各城郭で苦戦・敗戦したため 家康にしてみれば雑魚すぎるぞこいつという感じだった >無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替 木曾小笠原真田水野石川が出奔し徳川の軍事機密も露見し圧倒的国力差が生じ 今川氏真でも勝てそうな状況で母と妹を人質に出し家康に大領土与え、豊臣滅亡の要因を直接作った 秀吉の大敗
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40 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:37:31.03 ID:Obs9ybc0 - >つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。 策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから 秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果 家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿 >つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに >竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。 竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿 >しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり >7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw 滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍 蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。 秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ >すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として >南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。 >他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。 当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ >秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり >それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。 戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ 3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ >でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。 信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ >羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。 お前の主観なんて聞いてない >まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ? >そんなの去勢張ってるだけ 真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが 家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している 一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが 母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ >>583 木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記 誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに 降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然 また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある 木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃 この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな >信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。 家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
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41 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:39:13.98 ID:Obs9ybc0 - >>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな >>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本 >>10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。 そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ 大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに >>ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが >>人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。 信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろしく 土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない >>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない >>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が >>無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。 なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明 >>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし >>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが >>取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて >>清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。 小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに 囲っただけで勝ったようにいわれても >>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし >>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。 当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから 筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣 とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから >>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。 秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり >>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。 砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに 勝ったように語るとかアホですか >>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。 美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。 >>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領 なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明 >>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の >>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。 信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ >>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。 そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明 >>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。 和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ >>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。 だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが >>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか? 関係ねーわアホ >>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。 返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
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42 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:41:13.80 ID:Obs9ybc0 - >>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし 信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ >>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。 >>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。 吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然 >>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。 降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん 石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ >>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。 軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ >>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ >>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく >>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。 秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明 >>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで >>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと >>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど >>情けないことになっちゃったんだがw そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ? >>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。 >>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。 当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない >>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして 攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに >>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。 傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ >>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。 加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン >>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を 失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ >>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし 戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入 なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス >>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。 兵力差が圧倒的なんだから当たり前 >>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。 話がまとまってたなんて史料はない >>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし 6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
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43 :人間七七四年[sage]:2013/07/30(火) 23:51:19.46 ID:Obs9ybc0 - >>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ >>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく 普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ >>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。 そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ 尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない >>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。 家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い >>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で 三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ >>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし >>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ >>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、 >>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。 この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
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