- 織田信長は過大評価されすぎ12
822 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 09:33:31.69 ID:5xspctLN - 信長や秀吉の血液型がわかる方法がある。
信長は血判状2枚 秀吉は血判状を1枚書いている。 信長の場合は優勢な本願寺に泣き土下座していた時に 顕如様へ土下座血判状を出してる。 結局、朝廷には逆らえないということで石山から顕如は出たが 息子の光如が篭城を続けたために、信長は光如への土下座を開始。 その際に土下座血判状をまた出している。 相次いで朝廷から矢継ぎ早に説得が入ったために光如もさすがに・・・と立ち退き同意。 秀吉の場合は光秀を倒した後に 細川家との同盟を結んだ時に血判状をだし、織田家乗っ取りを開始する。 この血判状を調べれば彼らの血液型をしることが可能である。
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- あっけない死に方をした武将
156 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 09:40:27.02 ID:5xspctLN - 極悪犯罪を繰り返し老若男女数十万人の虐殺の結果、
火あぶりで死ぬまで苦しみ続け まるで煉獄の如く天罰を受けた信長
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- 斉藤道三信長秀吉の過大評価は司馬遼太郎のせい
25 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 09:45:13.43 ID:5xspctLN - テンプレではなく、日本史史上に例がない大量虐殺者が信長。
その冷酷かつ効率的な大量ジェノサイドは大陸的な嗜好と言え 本朝にはそのような劣った野獣に類例がない。 愛知県民が近畿の人々から恨まれるのは仕方が無いことだ。
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- 龍造寺だけど島津家久弱すぎワロタwwwwwwww
28 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 09:46:22.85 ID:5xspctLN - 鍋島が裏切らなければ勝ってたからな。
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- 海の司令官〜小西行長を語り継ぐ
342 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 09:49:48.94 ID:5xspctLN - 小西・島津義弘VS武断派が関が原の原因
家康と毛利はそれぞれ彼らを利用し担ぎ上げた。
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- 戦下手糞なくせに天下人になった秀吉は卑怯
373 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 09:51:28.28 ID:5xspctLN - >>360
まったく載ってないから逃亡したね。
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- 下克上された暗愚な暴君
37 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 10:22:20.42 ID:5xspctLN - 光秀重臣の佐竹宗実を許してるなんて
朝廷が信長暗殺に加担していた傍証だよな。 この人の妹が吉田神社の兼見の妻だし 天正10年正月に兼見が坂本で光秀と会談したときに 取次ぎしたのが宗実の弟の佐竹弥吉だったし。 この人は秀吉に許され、丹羽長秀に仕えてる。 伊勢貞知は光秀重臣伊勢貞興の従兄弟で幕臣→光秀配下となり 山崎の戦いを記述した山科言経の日記のうちで 山崎での合戦で敗北し伊勢守(貞興)以下30余討ち死と 最初に名前があがるほどの人物だった。 貞知は幕臣→近衛前久に仕えて信長のために島津と大友の和睦に奔走した。 この明智方重臣の家も秀吉は許している、 その他にも光秀騎下の近江の土豪磯谷新右衛門の息子で 光秀が元服名付け親となっていた磯谷彦四郎なんかも秀吉は許している。 やはり信長は朝廷・近衛・吉田神社・光秀・秀吉の謀議で殺されてるとしか思えない。
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- 悪逆大名
37 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 10:43:51.45 ID:5xspctLN - 池上裕子氏
信長は多くの人を殺害した。 そして「鬱憤を散じた」というのである。 異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。 それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。 戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても 信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない 不安定な状況に家臣たちは置かれていた。 一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には より強い不安感があった。 独断専行的で、合議の仕組みもなく 弁明・弁護の場も与えられず 家臣に連帯がなく孤立的で、 信長への絶対服従で成り立っている体制が 家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。 領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。 自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して 各地に赴く者たちも譜代であった。 信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
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- 豊臣秀吉の好色ぶりについて
47 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 10:56:35.22 ID:5xspctLN - そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、 嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
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- 父親が優秀だったのに子供が無能な戦国大名一番は?
171 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 11:01:45.75 ID:5xspctLN - 織田信秀→信長
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- 信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
99 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 11:06:14.05 ID:5xspctLN - >>42
しかも死ぬ間際の信秀は今川に和睦して欲しかったら 城を差し出せと言って城までもらってる 超上から和睦を結んでるほど威勢があった。
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- 長尾景春
603 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 11:08:58.13 ID:5xspctLN - 長尾景仲・景信・景春ら三世代が
あまりにも無双しすぎて上野国が疲弊して戦国後期では空気になっちまったな。
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- 残虐な戦国大名とは誰なの?
625 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 11:54:43.82 ID:5xspctLN - 一揆の者で降伏してきたヤツらもことごとく首を切れ。
昨日は洪水で動けないとの由だったが 水も引いて動けるようになっただろ。 念を入れて残らず討ち果たすことに専念せよ。 それをやった上で隙が生まれたら俺のところへ来い。 今後のことを申し聞かせてやろう。 前回の書に書いたように越前豊原に着いた。 その意に成るようにいたせ。 天正3年8/29の滝川宛の信長書状。 越前大虐殺のためにやってきた信長。 降伏した者もみんな殺せと命じている。 そして一寸の休息も許さず、すぐ働け、 達成したらすぐ俺のトコへ来い 新たな命令を伝えるとせっかちに命令している。 まさに絶対暴君にして部下を過労に追い立てる姿が見える。 この遠征が終わるや、光秀は新たな丹波戦線に派遣され そこで敗北して戻るや、すぐ摂津戦線に派遣され病になりながら 本願寺に破れて天王寺籠城をしている。 そして毛利が織田に攻撃を開始し木津川口で織田は大敗する。
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- 伊達政宗はどうすれば天下を獲れたのか?
180 :人間七七四年[]:2013/06/22(土) 12:02:55.06 ID:5xspctLN - 171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。 172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N 手元にコピーがないんで何日か待ってろ
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- 織田信長は過大評価されすぎ12
825 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 20:10:20.66 ID:5xspctLN - 濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし 織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して 美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。 信長は完全にチートスタートだ。 津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた 吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。 1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。 3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。 田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀 超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。 信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。 信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。 信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。 一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており 三河でも水野を防波堤となし 将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。 義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き 是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。 尾張より国力の小さい美濃攻略に11年 その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長 甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。 斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。 村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。 そんだけ信長が戦下手だという証拠。 そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って 戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。 経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。 領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。 むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで 執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
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- 織田信長は過大評価されすぎ12
826 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 20:11:13.76 ID:5xspctLN - 斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。 信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って 今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。 織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。 それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。 (大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった) 1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など 尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。 さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて 稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。 稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの 次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は 電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために 驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。 (藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた) 「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は 「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、 ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。 1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し 2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。 3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており 本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。 11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。 安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で 城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。 これはもう信秀の失敗とは言えないよな。 それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから 織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として 国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが) 今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。 清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は 織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う 一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。 父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると 道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。 大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、 美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が 獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。 のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、 信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
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- 織田信長は過大評価されすぎ12
827 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 20:12:36.59 ID:5xspctLN - 天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。 天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。 これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w) しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり 今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており 信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。 それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。 ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており 信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。 そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている) また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。 天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち 青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。 この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw) その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが 守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害 守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。 守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、 信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。 信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている) 天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。 岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。 しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。 1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。 5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ (4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。 (信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する) 当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、 土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。 義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、 改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
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- 織田信長は過大評価されすぎ12
828 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 20:13:15.67 ID:5xspctLN - 織田厨はバカ無知だから相手すんなwどうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。 信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて 六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では 六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし 婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから 信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず 義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣 772 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:23:50.63 ID:/rnb16KK 三好長慶が前年7月に死去していて、六角は畠山と合流して反抗を企てており 永禄8年正月には六角義承禎が丹波で蘆田越前と萩野(赤井直正)を調略したから 至急丹後へ出兵するように若狭武田氏に書状を出してるし 2/20には実際に丹後で行動を開始してる。 8/2には萩野が久秀の弟の内藤備前(松永長頼)を討死させて六角側が丹波を三好から奪回。 これで御前立てが確立し覚慶を甲賀和田城から野州郡矢島御所に移して義秋と名乗らせてる。 ちなみに和田氏は将軍御供衆で六角高頼の子である高盛の子であった景盛が養子に入っていて 義昭の脱出は彼と朝倉氏が協力していた(甲賀和田氏の一族は尾張内にも佐治・池田・前田系がそうだと言われてる) 永禄9年8月に信長がビビって上洛戦を取りやめたあとに、三好軍がやってきて六角内の義昭上洛派が破れ 義治と三好による六角政権の専断という事態に発展し これに対して六角重臣義昭派が反撃し、永禄10年4/18に義治を屈服させて 六角氏式目の発布で分国法を強制させ義治の領主権の大幅後退を強要させた。六角氏が内紛し弱体化したのは信長が上洛を取りやめたことで、 まとまっていた六角氏が再度、政治闘争時代に逆戻りし 三好の後援で重臣を従えたい義治と六角重臣が再対立したから。 信長の永禄11年の上洛戦開始前も六角氏配下の和田氏など甲賀衆が信長と連絡を取り合っていて 言続卿記によれば9/11に信長と義治を支援するためにやってきた三好軍の石成友通が激突し 石成ひとりの為に織田軍は互角の戦いを強いられ、双方が美濃、京へ退却。12日に観音寺城からの内応を得て再度織田軍が再出撃し 精鋭が篭る和田山を迂回し観音寺からの攻撃の危険性を無視して義治の箕作城を電撃奇襲し義治が甲賀へ脱出し上洛に成功。 (愛智川で織田と対峙する最前線の和田山城に義治の精鋭が入り、 反義治の重臣達は和田山守備から外され観音寺城に篭り、義治がいた箕作城とは峰続き) 信長公記はこの辺りのことを丸々隠蔽してるわけだ。関が原の時に西軍に味方しない義郷を殺すと近江がまとまらなくなると言って拒否した際に 義郷は近江の舊主(旧主)という言い方をしている。義治との対立軸に義秀→義堯→義郷が近江の舊主として六角重臣のまとめ役にいるのは明らか
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- 織田信長は過大評価されすぎ12
829 :人間七七四年[sage]:2013/06/22(土) 20:17:30.86 ID:5xspctLN - 一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので 遠江?関東に渡って共通した荘園の統一基準。 しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。 一段を田畑の内容の吟味を通じて 500文・400文・300文の三等級にすることで 税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。 また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も 七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。 武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも 武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。 信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。 朝廷に献金した金額ランキングが載っています。 1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理 2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費 3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明 4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費 5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理 ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、 彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。 まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、 信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、 しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか 今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。 超過保護大名斎藤道三 信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」 道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」 信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」 道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」 信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」 義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
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