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人間七七四年
天正10年の武田攻めを語るスレ 3
織田信長は過大評価されすぎ9
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな
信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの?
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
武田厨と織田厨が争うスレ
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
★★★名族 六角氏について語ろう★★★

書き込みレス一覧

天正10年の武田攻めを語るスレ 3
695 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 12:04:26.41 ID:RgzgQfMc
>>694=>>683
お前ホントに屑織田厨ぶりを晒してるなw
いい加減に恥を知れよ。
織田信長は過大評価されすぎ9
960 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 12:22:17.79 ID:RgzgQfMc
>>949
柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで
信長の指揮命令系統で動くのであり
家老の柴田の命令なんて受け付けない。
信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって
柴田が彼らを家臣扱いすることは
信長を軽視してることになる。

柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで
賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており
信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を
同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は
秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな
768 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 13:26:37.29 ID:RgzgQfMc
>>766
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。

その後も織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。

ちなみに信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

>>755に付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)

また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw

もともと義昭側近の六角義尭が本願寺と武田の間を取り持っていて
信長の本願寺への攻勢への牽制で武田出馬要請があった。
また六角氏は武田軍に六角中務大輔を従軍させてる。
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな
770 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 14:36:37.22 ID:RgzgQfMc
>>769
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの?
384 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 14:51:35.45 ID:RgzgQfMc
>>367
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。


毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
898 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 16:07:20.26 ID:RgzgQfMc

天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えている。
能島村上水軍って簡単に買収されるのが笑えるw
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
815 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 17:37:35.70 ID:RgzgQfMc
>>803
確かに天正3年になると信長が門跡や公家らの借銭や借米をチャラにしてるね。
さらに奈良の神鹿を信長が京へ上納させたことを多聞院は寺社零落と驚愕してる。
そして塙(原田)の大和守護で寺社滅亡するのではと恐れてる。
(興福寺らが実行支配する大和には守護が置かれない暗黙の了解があった)
3月から4月の出来事は大和国人たちにとっては青天の霹靂も同じ前代未聞の出来事。
10月になると塙の実効支配が開始され差出検地が開始される。
(信長を何かにつけ浅猿と蔑んでいる多聞院は差出しなのをいいことに
5大院は85石と無茶苦茶低く見積もって提出しててナメくさってるがw)
11月には安国寺が天正元年末に「信長は公家になるだろう」と予言していたように公家になってる。
それとともに門跡・公家・親王らに新領地をやるから俺に直接仕えろ!って言う公家の家臣化を推進し
信忠を従四位下・秋田城介に、織田信雄を左近衛権中将にさせるなど、
無暗やたらに買位買官を繰り返し、一足飛びに高官になるなど信長はもはや魑魅魍魎。
長篠の戦いの裏で、信長は京の不安定な統治を打開すべく、
アスペゆえに人の心までは買収できないのも理解できず、卑しいまでに賄賂でご機嫌を取ろうとしていた。
実際は越前での万単位の大虐殺に人心がどんどん離れていき、
その悪逆さから周囲があきれ果て面従腹背してるだけに過ぎず
信長が裸の王様になる階段を勢いよく登っているに過ぎんのに。
そして安国寺が見通していた信長が自業自得で殺されるまであと6年に迫った
天正4年からまた織田を取り巻く状況は再び困難なものになっていく。
>>804
>>佐和山横山をはじめとして浅井方の主要拠点はほぼ織田に分捕られて
だから「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
ちなみに伊賀守護は六角氏綱から養子に入った仁木義政の領地で
北伊勢の一向宗が暴れてるのも実は仁木氏の領土。
>>武田信玄が滅茶苦茶怒ったことということで
だから怒ってない。「驚いた」とか「5月まで在陣して」とか言ってるだけ。
>>織田軍とてまともに戦争もできたものではありません
むしろ相手の弱みに付込んで戦果を拡大しようとするだろ。なにいい加減なこと言ってんだw
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
817 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 17:40:07.64 ID:RgzgQfMc
>>細川家文書にあるので事実
認めてんならそれ以上に屁理屈をこねる必要性はまったくないだろ。
その後のカキコミはお前の願望妄想なんだから。
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
>>光秀にはその程度の事など日常茶飯事
そんなこと言われなくても知ってるわ。つか遊撃ポジションってのも不適当な表現だと思うがな。
んで、俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
>>信長もいきなり何もなく攻め込め言ってたわけじゃない
思いっきり準備もクソもない。いきなりに等しい。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の天王寺突撃話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
しかもその後の木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
>>805
信玄死去確定して毛利や本願寺が支援から手を引いたことで反織田の旗頭の義昭が降伏
あきらかに流れが変わりこの戦役でのターニングポイントを向かえただろ。
これで大野郡司の朝倉景鏡が従軍拒否したから素人の義景が軍を率いて見事に織田に大敗して滅亡だよ。
>>806
キチガイ過ぎて議論の価値すらもお前には無い。
武田厨と織田厨が争うスレ
413 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:02:30.74 ID:RgzgQfMc
天正3年8/4に正親町天皇が常陸での
天台宗と真言宗が争っている問題で
江戸重通に相論停止と比叡山延暦寺の指示に従えって
勅命を出してることからも
比叡山焼き討ち虐殺した信長を嫌って
比叡山復興を誓った大僧正信玄の上洛を
天皇が心待ちにしてたのは明白なんだよな。

信長は信玄と謙信、どっちが脅威だったの?
387 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:03:57.87 ID:RgzgQfMc
機動力で各個撃破をするなら
少数精鋭。
織田信長は過大評価されすぎ9
972 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:15:29.96 ID:RgzgQfMc

光秀としては長宗我部と信長の取り次ぎして
阿波での武功を褒めて、さらに忠節するように命じて
「信」を与えるから、今後は信親と名乗りなさいと言って感謝されてたのに
信長が手の平返しして、今度は秀吉が秀次を三好の人質に出して帰順させたみたいだから
三好を厚遇して長宗我部の領地を削るわw
さらに神戸信孝を三好の養子に送りこむ代わりに阿波は三好領に決めたから
長宗我部が文句言うなら攻め潰す!とか言い放たれたら
面目丸つぶれだし、そりゃあ光秀もキレるわなぁ。

天正10年の武田攻めを語るスレ 3
700 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:19:36.14 ID:RgzgQfMc
>>699
昔の人は天災を神の啓示と思って
自らの政と不徳を恥じて心を改める感受性があったが
いまの政治家や支配階級は想定外wとか言ってクソすぎだよね。
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな
773 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:21:20.49 ID:RgzgQfMc
>>772
>>その後包囲網の西は瞬く間に平らげられた
お前が無知で単純なアホだと知った瞬間w
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
419 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:33:47.85 ID:RgzgQfMc
>>416
蜂須賀の書状は光成氏の95ページから転載してきてるよね。
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや
待ちかねていたように急ぎ即日出発。
明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で
輝元を大坂に招き入れて家康が蜂起を過小評価させることに成功。

7/12に三奉行(三成除く)が輝元の大坂入りを要請していて
同時に彼らに決起を打ち明けられ同意を求められた家政が
16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで
家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ
瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。
>>417
>>広家がその時点で止めにかかってるから
発送されなかった書状、
もしくは後からアリバイ作りのために
作成された偽書状だと判明してます。
これに関しては広家の言い分け書状も残ってます。
>>418
むしろ輝元が首謀者であり
三成と吉継の挙兵程度で大したことがないと
家康に思わせることで
家康の楽観さを引き出すことに成功した。
>>414
白川氏は家康が北政所を追い出し西の丸に本丸同然の天守閣を築いたこと
伏見城落城翌日に北政所が輝元と豊国社で戦勝祈願
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っていること。
北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
などを挙げてる。参考にすべき達見ですね。


★★★名族 六角氏について語ろう★★★
541 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:36:47.76 ID:RgzgQfMc
>>537>>538>>539>>540みたいに
粘着を繰り返して執拗に常駐して
最後にレスすればクソな主張でも
勝利判定になると誤解してる
偏執者っているよね。
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
900 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:45:16.27 ID:RgzgQfMc
>>899
毛利謹製妄想軍記講談の世界では毛利は百戦百勝の常勝の軍だもんなw
勝ったのに、なぜか領地を手放して後退したり意味不明www
織田信長は過大評価されすぎ9
975 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 18:58:18.45 ID:RgzgQfMc
>>974
>>本能寺が無かったら毛利も上杉もちょうそかべもその年中に滅んでた
ありえないな。これからがまさに本戦開始ってところだからな。



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