- 戦国ちょっといい話30
139 :人間七七四年[sage]:2011/12/25(日) 17:26:44.03 ID:J0wjrkZB - 「赤松さんの墓」
元文3年(1738年)但馬・円山川流域で大洪水が発生し、小佐郷に大きな石が流れ着いた。 その石は墓石にするには理想的な形状をしていたのだが、高さは1,5m、幅は50cmもあるので、村人たちはとりあえず永源寺の住職・了覚和尚に預けることにした。 その翌年、了覚和尚から村人たちへ一つの提案があった。 「お前達もよく知っているとおり、この小佐郷は120年ほど前には竹田城主・赤松広秀(広通)公によって治められておった。 広秀公は民を非常に慈しみ、この郷が凶作となった時など3年間にわたって年貢を全免してくださった。 さらに、氾濫地には桑を植えて養蚕を奨励されたことで、今もこの地は恩恵に浴し、昨年の飢饉も生糸の収入で乗り切ることもできた。 このご恩を忘れぬためにも、あの石で広秀公の供養塔を作ろうではないか。」 「赤松さん、赤松さん」と広秀のことを語り継ぎ、敬愛してきた村人たちのこと、これに反対する者のあろうはずもない。 早速「乗林院殿可翁松雲居士之墓・前竹田之城主赤松左兵衛廣秀」等の文字を刻み込むと、自分達の先祖によって密かに築かれていた、大森(養父市八鹿町)の墓に据えたのであった。 後には、この墓が雨露に濡れることの無いようにと祠で囲い、祭祀を欠かすことなく今も大切に守り伝えられている。 また、収穫を祭祀の費用に当てるための田畑は「赤松散田」として伝えられてきた。 なお、竹田城下ではこの墓の事を「腕塚」と呼んでいるそうで、 赤松の遺臣や竹田の領民が、広秀が自害した鳥取でその片腕(片袖)を下げ渡してもらい、どうにかして竹田へ持ち帰ろうとしたものの、 城接収のために城下には入れなかったので、やむを得ずこの地に葬ったものだという話が伝えられている。 大森にも竹田にも「赤松さん」への思慕は今なお残っている。
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