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人間七七四年
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
織田信長は過大評価されすぎ9
最大版図を築き上げるも家を没落させた当主を語れ
家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
結局【謙信最強】を認めざるを得ない 3陣目

書き込みレス一覧

武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
580 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 11:17:52.11 ID:I6pEgeYn
織田厨にとって都合が悪い話は
すべて根拠すら出さずにウソだと強弁するとか
完全に論破されて思考停止にまで追い詰められた
なによりの証拠だなw
常識的には一次史料を用いて、
こういう事実があるから、その書状の内容は検討を要する
と書くのが史学では当然の常識なのにwww
織田信長は過大評価されすぎ9
661 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 11:47:03.87 ID:I6pEgeYn

>>644
宛先は隆景が小早川家へ養子に入る時に毛利本家から一緒に付いてきた
隆景の側近の井上春忠と山縣越前守だぞ。
信長と会談してから船が着岸した岡山で宇喜多に会う前に
>>646のように毛利家の今後を決める畿内の情勢報告を隆景にしてる重要書状なんだが。
>>648
小早川の関が原前日の内応を約する東軍の安堵状は偽書状であり
小早川は吉川が戦いに参加しないために疑心暗鬼になって迷いまくった末の行動。
吉川が関が原の戦いに参加していれば、とうぜん小早川も西軍として行動していた。
脇坂なんかは小勢だから小早川の謀反を見て従っただけの話。
実際、吉川のバカがちゃんと関が原に参加していれば毛利は勝利していた可能性は高く
関が原までの流れも毛利有利に展開しており安国寺の想定が間違っていたとはいえない。
>>このときはまだ毛利と織田は交戦していなかった気がする
いやすでに信長が後援する浦上や山名を宇喜多や吉川を先鋒に毛利は攻めてるし
それに追い詰められた浦上も義昭に内通開始していたし、山名も毛利に従属してる。
毛利が兵糧を援助したりしていたが、義昭への協力を拒否したのは信玄死後であり、
それが原因で槙島城での抗戦を義昭は断念して、本願寺の斡旋で三好の下へ頼ることになる。
最大版図を築き上げるも家を没落させた当主を語れ
145 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 11:50:16.00 ID:I6pEgeYn
信忠では団や森らを抑えることはできても
柴田や明智や秀吉や滝川ら武功を持ち
多数の配下をも指揮している軍団長のような立場で
信長にも謀反したことがある織田家老の重鎮や
実力重視で這い上がった者らは
とても支配できない。
家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
104 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 11:56:54.16 ID:I6pEgeYn
信玄と謙信は
いずれも山谷に割拠する国人たちが強すぎて
信虎は追放、為景は隠居に追い詰められ
権臣国人たちの専横のための家督交代が行われ
傀儡として擁立された。

織田信長は過大評価されすぎ9
667 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 13:07:29.47 ID:I6pEgeYn
>>665
この天正元年の時点で安国寺が偽書を書く意味がわからないし
偽と決め付ける理由も君は書いてない。
また信長死後の天正10年以後にその偽書を書く必要性も感じられないし
信長死後に書いたと決め付ける理由も君は書いてない。

というかお前がアホなのは理解できた。
家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
106 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 13:58:49.64 ID:I6pEgeYn
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
107 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 14:00:30.10 ID:I6pEgeYn

焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと
依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」

大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
108 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 14:05:09.03 ID:I6pEgeYn
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
http://members.at.infoseek.co.jp/twt/oda/kenkin.htm
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、だいたい600人を1年間雇えるくらい

尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。

岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。

1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし岐阜陥落後に加治田城は斎藤新五郎のものになっちゃうし。

結局【謙信最強】を認めざるを得ない 3陣目
294 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 19:46:48.78 ID:I6pEgeYn
武田だって真田ら末端が生き残ってるわけだがw
あっ穴山は信長が死んだのと同じくらいに死んだから
勝頼が死んだ2ヶ月半後に信長の巻きぞい喰って天誅されたなw

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった25日後には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww


家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
110 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 19:51:53.80 ID:I6pEgeYn
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。
甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、
金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉・旱魃・大風・疫病・稲皆損・大水損が
数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ
信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。
ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。
父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負けた時にはその危機が更に深まりました(信玄を傀儡にした権臣が死んだのは良かったが)
貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として
関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発は根拠がない完全なデタラメです)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。
普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。

家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
111 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 19:54:42.15 ID:I6pEgeYn
それは反動する力が多分に残されていたからであり、その原因はまず永正の乱〜天文の乱に求められる
竹俣、色部、本庄宗家らが、上杉房能を討った長尾為景に対し、叛旗を翻した
為景は中条らと力を合わせ、彼らの拠る竹俣城、平林城、本庄城を瞬く間に落としていったが
討ち果たすまでには到らなかった
この際、一度降伏した筈の竹俣&本庄宗家は関東管領・上杉顕定の大軍を越後へ呼び、再び反抗する
当初は上田長尾まで関東管領に味方したので、為景も越後から逃げ出すしかなかった
関東管領の旗色が悪くなると、上田長尾は為景方へと乗り換えたので、上杉顕定を討ち果たす事には成功した
が、依然として揚北衆&上田長尾らは健在で、後に上条の乱において為景を打倒してしまう

その上条の乱でも、上条定憲が繰り返し兵を挙げ、
その度に為景は勝利するも、上条を殺せず結局上条はすぐに復活してしまう
そして定憲は三度目ともなる「打倒為景」の檄を越後全土に飛ばした
為景は堪らず、北条毛利&安田毛利に辞を低くして破格の条件を提示し、なんとか味方に引き込む
しかし揚北衆連合や上田長尾はじめ、大多数の越後豪族は上条方へつき、
次第に追い詰められた為景は敗北>隠居>死去
府中長尾家に恨み骨髄の豪族達は勢力を盛り返し、その為景の葬儀は武装で行われた。
上条はじめ上杉一門と上杉の元被官達、それに味方した有力な越後豪族達
彼等は府中長尾家に対しては、勝利者という意識を残したまま、屹立した存在を維持し続けた
叩き潰されてもおらず、勢力も温存されたので、府中長尾に従う意識も当然、希薄
晴景時代には春日山への出仕を拒み、景虎時代には第三次川中島の時点でさえ派兵に応えない
そんな連中を政権内に取り込む課題は、かなりの難題だった。
こんな状態なので、政権を確立させ、浸透するまでも長き道のり
しかも景虎が家督を継ぐにあたって、上杉定実は長尾に大きな借りを作っており
上条の乱で長尾を破った上杉からの影響がさらに増し、二重支配の状態からスタートしなければならなかった
つまり長尾と敵対し、勝利した豪族達だけでなく、上杉一門からも干渉を受けた景虎政治の実態は、
晴信以上に外部から強い干渉を受けている第三次川中島の時点では、
色部&本庄宗家に軍役を負わせられる立場でも無い。

家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
112 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 19:56:46.61 ID:I6pEgeYn
将軍義晴から白傘袋や毛氈鞍覆を必死に貰い守護代の地位で立場を必死につなぎとめていたが
享禄・天文の乱で義晴が京から追放されるや上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し
父が隠匿に追い込まれ翌年死去。
幼年の謙信は謀反を恐れて甲冑姿で警戒中の葬儀をでた後は出家させられる。
操り人形として兄が守護に擁立される始末。兄より20歳以上離れた謙信への守護代変更も
守護がより操り易いと考えての事。さらに三国同盟で背後を固めた北条や武田の猛攻。
謙信は家督を継ぐまでにも、何度も追い詰められ、その命を危険に晒してきた。
叛乱が相次ぎ兄の命により周囲が敵だらけの栃尾の小城を本拠にして、
景虎を若輩と侮って襲いくる近隣の豪族達これを撃退する存在でしかなかった。
家督を継いだ後も、為景の残した借財を背負わされ上条の乱で敗北した
府中長尾という家柄にも苦しまされた、という話がまず有る。
(為景は年間300貫の赤字を出していたつまり府中長尾家が没落する一要因を生み出している)
支配者から引き摺り下ろされた父親が亡くなった際、その葬儀を行うにも、
どの勢力が、いつ襲撃してくるかも分からない状況。
七つの子供さえ甲冑を身に付けて参列するほど異常な有様だった。
つまり族滅の可能性が有ったくらい出身の家柄は没落しきっていた本拠地でクーデターが起こり、
城内は阿鼻叫喚の地獄絵図。そのクーデターを起こした黒田秀忠は父親の元寵臣。
一説によると謙信の兄二人が城内で惨殺され、若い謙信も命を狙われ、殺される所だった。
これだけの事件を起こした黒田の処分は、春日山への出仕停止、府内追放〜といった軽過ぎる処分で、
府中長尾は追討出来る実力を持ち合わせていなかった。
若き日の氏康、信長そして政宗の本拠地はこんな有様だったろうか。
謙信が春日山城主になった頃は、上条の乱で勝利した上杉派の力が強く幽閉の身から開放された
上杉定実、為景に叛いた上田長尾親子、大熊政秀&朝秀親子など彼ら
大部分の戦国領主達は独自に文書を発給出来ている。
謙信初期の政務は、長尾景虎が発給する認可だけではなく、別に上杉家の認可をも必要とされており、
その貧弱な政治体制を受け継ぐしかなかった。
こういった二重支配を強いられた立場が、そのまま長尾景虎が最初に背負わされたスタートライン
それは信長、氏康、義元、義景とは比較にならないほど後方に位置している。
上杉定実の死〜栃尾本庄&直江&大熊ら三重臣からなる体制など、
ここで謙信が隠棲した原因は上杉派vs長尾派が対立した
新体制の歪みでありきっかけは上野下平の領地争いで、謙信が裁定を下し一応は決着
しかし上野と関係が深い栃尾本庄が暗躍し、府中から派遣された僧を説得するなどして
謙信の下した裁定を反故にしてしまった(これに大熊が激怒)
裁定権を否定された領主は存在価値が薄い。よって謙信は、
以後は皆で相談して決めるように〜と当然の対応をして隠棲。
家臣の説得で戻った後は、重臣、奉行衆を次々に組み換え、新しい人材を組み込んでさらに新しい体制を構築している
守護代の府内長尾や栖吉長尾、三条長尾、上田長尾は実力がほとんど一緒。
そんな中、争う事無く越後をまとめあげるために二度目の上洛。
相伴衆に任命され、裏書御免・塗輿御免の御内書を与えられる。
これは長尾権力では越後を治められなかった父同様に幕府権力にすがり上位権力者になろうとすることであり国人達を取り込む苦肉の策。
府内長尾の権力は脆弱で将軍義輝によりそれによって守護上杉氏の領地であった越後府中も支配下にする
こうやってあまり疲弊させることなく越後を統一していくって様はなかなか見事。
家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
113 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 19:59:02.35 ID:I6pEgeYn


謙信が上田長尾を屈服させ、揚北本庄が混乱している頃、北条氏康は上野北部の沼田城に
北条孫次郎を配置し、関宿も手に入れ、里見も佐竹も降伏寸前 北条による関東制覇は目前だった。
晴信は村上を追い出して北信濃攻略に着手。残された北信の小豪族らを放っておけば
易々と武田に吸収されて飯山にまで攻め込んでくる勢い。
この強大化した北条と武田が協力し合って北上中すると言う危機から越後統一を目指したのが謙信。
青苧交易というのは国内の魚沼&揚北〜小千谷〜柏崎など越後における支配が広範囲に安定していないと流通できない
魚沼&揚北の山間部で青苧を収穫、これら越後の南北から中越の小千谷で荷を集積し、
柏崎港まで運び、北前船で上方へ送るという流れ
魚沼を支配しているのは上田長尾氏、揚北は揚北衆、小千谷(稗生城)は上田長尾寄りの平子氏
柏崎港の周辺は上条の乱で上杉方についた宇佐美&柿崎、家中が混乱していた越後毛利氏、
そして何と言っても最大の敵、上条氏が隣接しているという不安定地域。
1473年から38年間にも渡って青苧出荷が途絶えた大乱を経て、ようやく為景が越後を掌握した短い期間(大永4年〜同8年)
青苧座を束ねる三条西家が再三催促しているにも関わらず、交易が下火になっている
為景は上田長尾との関係が改善していたこの時期、国を富ます政策を等閑にし、
越中東部守護代を兼任し、父の能景が騙し討ちを受けた一向宗や神保討伐で越中遠征に没頭。
この遠征に駆り出され、疲弊し切った越後豪族達の不満は高まり、上田長尾を含む殆どの豪族は上条方へと付き、
為景は四面楚歌に陥る。府中長尾に勝利した上田長尾親子は春日山に居座り、実権を握ったと見られている
幾ら青苧を育む土地があったとして、それを交易するには越後全体の安定が必要。
それは国内の内情を鑑みると非常に厳しい条件だった
当時の越後は雪国の気候に適した作物の品種改良がなかった事などから二毛作も厳しく、
39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら、
海運業の発展や青苧・越後布の奨励、さらに伊勢商人の掌握などで度重なる戦でも
決して財政難にはならなかった程の経済のスペシャリストである謙信
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った。

結局【謙信最強】を認めざるを得ない 3陣目
296 :人間七七四年[]:2011/12/14(水) 20:02:52.09 ID:I6pEgeYn
>>信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。

これ前田利家のことね。


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