- 小田原の役で後北条軍が豊臣軍に勝利する方法
809 :人間七七四年[sage]:2011/12/04(日) 00:33:30.05 ID:QNe3Wg5C - >>808
天正十六年二月に氏規は上洛の約束をしており、 家康の起請文についてはこれを指している。とりあえずも何も無い。 でなければわざわざ兄弟の内誰かなんていう表現をしなくても良い。 風聞ってのは家康が北条領を望んでるって事の否定で、 別にそれと氏政上洛とは関係ない。 北条宗家が主戦派であって、その責任で氏政が責任を取らされたとなると、 今度は氏照や松田、大道寺の処分は何でって話になる。 実際に多額の資金を集めて氏規を上洛させているわけで、 従う気がないのであればそんな事をする必要も無い。 また、資金を徴収してるのは領民ではなく家臣達。 嘘までついて家臣からお金を取ってそのまま戦争しようなんて危ない事はしないよ。
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812 :人間七七四年[sage]:2011/12/04(日) 00:55:25.34 ID:QNe3Wg5C - 足利事件は北条も家康に北条家内部の問題だと確認を取っているし、
秀吉がそれを咎めた形跡も無い。 少なくとも秀吉は氏規の上洛で一旦赦免したわけで、 その後問題にしているのは名胡桃城と上洛の遅れ。 上洛の遅れについては、先にも述べた通り当初から十二月の予定で 報告しており、準備もその予定に沿って行っている。 ただ、秀吉にはそれが伝わっていない。
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814 :人間七七四年[sage]:2011/12/04(日) 02:24:22.55 ID:QNe3Wg5C - 足利城は板部岡上洛とほぼ同時期に落城しており、そこに裁定も何も無い。
また氏邦の足利着陣は八月で、その事は石田三成の耳に入っているにも 拘わらず、その間にそれが問題視されている形跡は一切無い。 もちろん、沼田の裁定の際にもそれは触れられていない。 結局問題になるのは同時期に行われた氏邦の宇都宮侵攻と猪俣の名胡桃城事件だが、 これを氏政が直接指示したという記録も無く 上洛という正反対の行動をする準備を具体的に行っていた以上、 北条宗家が対決姿勢だったとは考えられない。
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821 :人間七七四年[sage]:2011/12/04(日) 10:22:46.52 ID:QNe3Wg5C - >>816
六月の氏直書状から延引?一体何の史料?
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