- 【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】
156 :人間七七四年[sage]:2011/12/03(土) 14:29:43.67 ID:291I7SSL - 仙台250万石、200万石と同様、餓死者数万人〜20万人は雑記から持ってきた数字で根拠はない。
ただ、人口の大幅減少が起こったのは確か。 天明の飢饉のときの陸奥領内郡方人口の変化を細かく見ると、 もともと少子化傾向が続いていて人口が減っているんだが、 1780年:503,931 1781年:502,124 1782年:不明 1783年:493,245 1784年:478,894 1785年:413,191 1786年:411,496 (この時仙台藩総人口596,282人) 1787年:410,974 1788年:410,196 1789年:409,632 1790年:410,401 と2年間で7万人人口が減少している。実際には餓死による死者よりも、 飢餓状態で抵抗力の落ちているところで流行った疫病での死者の方が多い。
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157 :人間七七四年[sage]:2011/12/03(土) 14:30:30.29 ID:291I7SSL - 天保の大飢饉のときは、以下のような感じでデータが欠落しているが、
1822年:479,281 (この時仙台藩総人口は699,334人) 1832年:495,501 1852年:478,613 高木正朗・新屋均らが磐井郡の9村の人別改帳の人口変化を、 1832年〜1852年の仙台藩陸奥領郡方人口に対してあてはめて人口変遷を推定したところ、 こちらも2年間で7万人程度の人口減少が起こっていたことになる。 1832年:495,501 1833年:497,422 1834年:496,047 1835年:484,877 1836年:483,503 1837年:472,689 1838年:424,828 1839年:401,813 1840年:403,556 1841年:408,326 1842年:415,323 1843年:422,231 1844年:432,701 1845年:436,848 1846年:444,914 1847年:451,733 1848年:454,900 1849年:461,808 1850年:466,578 1851年:473,842 1852年:478,613 飢饉前には人口飽和状態のストレスからくる緩やかな人口減少、 飢饉後には多産による人口回復という傾向は、天明・天保の大飢饉共に同じ。
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158 :人間七七四年[sage]:2011/12/03(土) 14:44:49.23 ID:291I7SSL - 実のところ米沢藩も、天明、天保の大飢饉前後で人口の減少が起こっている。
ただ、餓死という記録は残っていない。 もっともお隣の会津藩も大飢饉の前後で酷くは人口が減っていないので、 藩の政策というより、大飢饉が起こった天候不順地域の辺境であったために、 被害が少なかったというのが真実な気がする。 (弘前藩、久保田藩も飢饉でひどい人口減少が起こっている) 人口データに関しては南部藩は18世紀後半以降、慢性的に改竄し続けたため、 何が本当の調査人口なのかもはや不明。 『盛岡タイムス』によると >また、飢饉などに際して餓死者の数を記載するものがあり、 >ここに記録する人口との乖(かい)離を指摘する研究者もままあるが、 >史料の性質を無視した意見であると云えよう。 http://www.morioka-times.com/news/2006/0611/24/06112404.htm とのことで、実際に南部藩では飢饉など発生せず、ずっと一定の人口を維持し続けた! ということを堂々と主張している郷土史家もいるけど、そもそも最初に藩の公文書の人口と、 裏帳簿の南部藩の人口との乖離を論文にしたのは、明治時代の地元南部藩の旧武家の人だったりする。
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159 :人間七七四年[sage]:2011/12/03(土) 15:13:51.36 ID:291I7SSL - ちなみに天明の大飢饉のときの弘前藩の人口変遷は
弘前藩は 1781年→1800年 246,822人→173,863人 天保の大飢饉のときの久保田藩の人口減少は 1833年→1843年 435,262人→322,999人 人口データが持続的に残っていないので、仙台藩の例に比べて正確な分析は無理だけど、 仙台藩、南部藩、弘前藩、久保田藩で、大飢饉のときの被害に大差はない。
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