- 【羽後】安東愛季【最強?】
406 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 04:46:14.99 ID:Abk5xlxA - 盛岡から秋北バスターミナルへ行ったな。
正札竹村って言う百貨店に入ったような記憶が。
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- 【三浦介】葦名氏総合スレ【会津守護】
794 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 04:58:55.45 ID:Abk5xlxA - いやいや伊達の南下阻止に必死で
北条と伊達の連携を受けてたから 義宣の軍事行動は大規模だっただろ。 なぜ大したこと無いとイメージさせようとしてんの? 会津が平定できてないって言うが それも反伊達は最西部山岳地帯の水久保城くらいなもんで、 しかも秀吉が伊達は後回しにして北条攻める令が上杉にきてから ほぼ佐竹独力での伊達南下防衛戦争じゃん。 岩城常隆や那須や白河まで伊達側になって八方塞りだったのが佐竹。 それを戦線縮小とか大きな軍事行動をしてないとか詭弁すぎだろ。
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- 武田信玄に天下統一が出来るの?
743 :人間七七四年[sage]:2011/11/24(木) 05:01:01.49 ID:Abk5xlxA - 論破されると必ず
相手は自演に違いないって 言い出す習性は相変わらずだなw つまり織田厨の実質敗北宣言と同義w
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- 関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
366 :人間七七四年[sage]:2011/11/24(木) 05:05:30.86 ID:Abk5xlxA - いやいや>>355で>>君の言うとおり、反論はしてないよ
などと反論不可能の敗北宣言してるし >>223では三成首謀の主張を撤回しちゃって敗北宣言してるしな。 消去法でいっても、もはや輝宗以外に首謀者はいないもんね。 そりゃあ論理破綻するよな。
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- 武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
400 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 05:08:27.17 ID:Abk5xlxA - いたずらに戦力の分派を繰り返し
アチコチで国人相相手にボロ負けしてる織田軍w 戦力の集中運用という戦略思想がまったく無い織田・・・
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- 織田信長は過大評価されすぎ9
236 :人間七七四年[sage]:2011/11/24(木) 05:31:22.54 ID:Abk5xlxA - 太田も甫庵も面識あるから、双方が相手への親しみを込めた憎まれ発言で評してるでしょ。
あれ面識無かったり、本当に仲が悪かったらコメントすらしないでシカトでしょ。 しかもパクリなんだし。 歴史を編修する人なんて殺伐としたヤツ多いから 例えば同じ題材の歴史記述していた沢田源内に対して建部賢明なんかは「あいつ嘘つきだから生きてたら俺が殺してやった」とか書いてるし。 それに訂正時の朱縦線でもなく、 元の字を擦り消して池田の名を書き直した修正パターンでもなく 池田本の特徴である後から修正してるいずれのパターンにも該当しないわけで 横にただ単に書き忘れを本文と同じ黒墨で三と付け足しているだけに過ぎんのに それを後世の改竄などと喚き散らすのはちょっと頭がおかしいんじゃないか?と疑わざる得ないわ。 どう考えても後世の改竄には見えないわ。 そもそも個人オーダーした特注品なのに 一般庶民向け刊行されたものを見て書き直すとか不可解すぎるわ。
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- 武田厨と織田厨が争うスレ
149 :人間七七四年[sage]:2011/11/24(木) 18:32:55.06 ID:Abk5xlxA - 信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし 貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。 それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。
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- 織田信長は過大評価されすぎ9
240 :人間七七四年[sage]:2011/11/24(木) 18:37:34.68 ID:Abk5xlxA - 尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが それまでの池田本には無い信長長女に言及があり 信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、 信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで 鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど 池田本からさらなる追加記事を登場させている。 これは誰の発注なのか不明だが、 適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。 だから甫庵の著作を見て後世の人間がひそかに改変してる論理は成立しないし 何の利益があって朱線訂正や摺り潰し訂正ではなく、 訂正とわからないように密かに追加挿入で改竄しようとしてるのか意味不明。
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- 武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
411 :人間七七四年[sage]:2011/11/24(木) 18:41:25.21 ID:Abk5xlxA - 御元服の時の正式名乗り
織田欝三郎信長 その名の通り公記には信長が「御狂」いなされた と書いてるケースがある。 天正七年に2回と天正十年に1回の狂い。
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- 武田信玄に天下統一が出来るの?
746 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 19:03:44.67 ID:Abk5xlxA - 最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは 柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮であり、 桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を 織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。 これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の 信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。 旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。 読む場合に注意すべき点は 軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている 特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で 勘助自体が存在しないと言われる所以である 原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を 小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。 市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され 晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。 この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。 この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。 また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが 出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。 三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に 無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
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- 武田信玄は過大評価されすぎ!!part2
412 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 19:06:20.04 ID:Abk5xlxA - 謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。 志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。 まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。 赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。 謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる。 上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて 織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが 7月元就死後に隆景と対立する元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。 10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば 小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。 義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で 有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら 対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して一斉挙兵。 摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか 対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し 本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい 相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。 がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために 天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて 輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。 信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し 高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。 これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
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- 天正10年の武田攻めを語るスレ 3
602 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 19:11:38.15 ID:Abk5xlxA - 長篠の戦いで敗北
岩村城を見捨てる 上杉後継争いで北条との同盟を切る 高天神城への援軍を送らず見捨てた など勝頼の失敗が完全に原因でしょ。
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- 織田信長は過大評価されすぎ9
241 :人間七七四年[]:2011/11/24(木) 19:30:33.89 ID:Abk5xlxA - >>124>>125>>127
1561年5月墨俣攻防での信清の弟討死 1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。 1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。 8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数 その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。 1567年8月に美濃三人衆の内応に成功。
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