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人間七七四年
戦国ちょっと悪い話29
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真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 4
戦国時代関連の良書
【三法師】清洲会議を語る【天正十年】

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戦国ちょっと悪い話29
81 :人間七七四年[sage]:2011/11/20(日) 01:14:45.73 ID:+n/HE+5X
天正11年(1483)、秀吉の弟、羽柴美濃守秀長と羽柴孫七郎秀次は、伊勢の峰の城攻めをしたが、
城主・滝川義太夫がこれを良く防いで戦った。
織田信雄の家臣・津川玄蕃も同じくこの城を攻め、軍勢を集結させ城の堀際へと寄せてきた。
この時城中から長い柄杓を使って糞尿を汲み、これを寄せ手に向かってかけ散らした。

それから織田上野介信包(信長弟)もこの城に攻めに来たが、この時信包の部隊が城のすぐ近くまで近づき、
こう大声を挙げた

「我らに俳諧の発句あり!城内の人々、歌の心あらばこの脇をつけよ!」

これに城内の誰とも知らぬものが大音で返答した

「お前たちはどうせ、前々から発句を作っておいて、今我々に脇を乞うているのだろう!
それがし、只今とっさに作った狂歌がある!お前たち、これに返歌せよ!」

そして一句

『上野の やき砥は鑓に合わねども 羽柴をしなす峰の城かな』
(上野介程度の敵では我々の手に合わないが仕方がない戦ってやろう。ここは羽柴軍の連中の命を奪う峰の城だ!)

これに信包の家臣たちは返答につまり、ただ城に向かって鉄砲を撃ちかけることしか出来なかった。
(北畠物語


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176 :人間七七四年[sage]:2011/11/20(日) 09:11:30.32 ID:+n/HE+5X
>>175
義政はむしろ義視後継を支持していた感じだし、富子も義尚を擁立するような動きはしてないからなあ。

結局文正の政変で失脚した側近の伊勢貞親を再び手足として使いたい義政が復帰させて、
それに義視が強く反発したのが、後継から排除された理由だね。
後継問題と言うよりも伊勢貞親問題だった。
真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 4
144 :人間七七四年[sage]:2011/11/20(日) 09:39:15.24 ID:+n/HE+5X
50万石も切り取れるような器量じゃないだろ
戦国時代関連の良書
652 :人間七七四年[sage]:2011/11/20(日) 11:29:36.17 ID:+n/HE+5X
>>651
真田マンセー信濃マンセーの脳天気な信濃中心史観を楽しみたければ真田三代。

それ以外なら前者
【三法師】清洲会議を語る【天正十年】
557 :人間七七四年[sage]:2011/11/20(日) 11:45:51.35 ID:+n/HE+5X
清洲会議の勝者は柴田勝家側だわな。
三法師の身柄も自分たちの方に確保しているし、勝家とお市の結婚で織田家内部における正当性も
勝家のほうがはるかに強固なことも示した。当時の秀吉の政治力ではこの追認しか出来なかった。

秀吉はこの政治的敗北を覆すため、清洲会議後、会議において決まっていた新規築城の停止を
破り山崎城を建設するなど畿内を固めつつ柴田側に挑発を行い、自由にならない三法師に変わり、
与党の丹羽長秀、池田勝入斎らと一方的に三法師の織田家家督を廃し信雄を新家督として擁立した。
これは秀吉による清須体制へのクーデターといえる。

清須体制は秀吉が克服すべき軛であって、後世秀吉が宣伝したような、秀吉の政治的勝利では全くない。

戦国時代関連の良書
655 :人間七七四年[sage]:2011/11/20(日) 18:56:51.96 ID:+n/HE+5X
PHPの真田三代は大河実現のための真田PR本と断言していい内容だった。


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