- 佐竹氏を語るスレ 4
355 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 15:02:17.18 ID:w3gtJ+56 - >>352
∧,,∧ (;`・ω・) 。・゚・⌒) 殿様のためにチャーハン作るよ!! / o━ヽニニフ)) しー-J
| - 戦国ちょっといい話29
464 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 17:22:04.68 ID:w3gtJ+56 - 律義者と岩瀬御台のちょっと切ない話
二階堂氏の本拠地である須賀川城は、天正十七年、伊達政宗に攻められて落城。 蘆名盛隆の娘で、二階堂家の養女となっていた姫は 祖母であり且つ養母でもある阿南の方とともに常陸国の佐竹に身を寄せた。 このとき佐竹義宣は正室を亡くして独り身だった。 ほどなくして姫は義宣の側室となる。 南奥羽の名門、蘆名・二階堂両家の血を引く姫である。本来なら正室に据えられるべきところだが、 多賀谷重経の娘を継室に迎える話がほぼ決まっていたため、義宣は家柄より約束を優先した。 律義者はこの頃から律義者である。 二階堂の姫はその生まれの良さから、側室ながら「岩瀬『御台』」と呼ばれた。 二人に子は出来なかったが、仲は良好だったようだ。 ちなみに義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹で、阿南の方は伊達御前の実の姉。 岩瀬御台の母も阿南の方の妹で、父の盛隆は阿南の方の実の息子。 義宣は従兄妹同士の結婚で生まれ、自分は従妹を側室に迎えたことになる。 時は流れ、関ヶ原の戦いで向背を明確にしなかった佐竹はその咎で出羽久保田へ転封。 義宣の母と正室は江戸に人質住まいとなり、岩瀬御台と阿南の方は入部に従った。 しかし阿南の方は久保田へ向かう途中で体調を崩し、懐かしい須賀川で没した。 これでようやく落ち着くかと思ったのも束の間、公儀から突然「岩瀬御台と離縁せよ」との命が下る。 理由ははっきりしない。 伊達政宗が最後まで自分に抗った二階堂を憎み、その血筋を残したくなかったためとも言われている。 ともかく、逆らえば今度こそ佐竹は御家取り潰しである。 義宣は岩瀬御台を離縁。二度と会うことはなかった。 岩瀬御台は、かつての二階堂の忠臣・須田盛秀が城代を務める横手城に預けられた。 ここで須賀川衆と呼ばれる二階堂以来の懐かしい家臣たちに囲まれて余生を送る。 久保田城との糸は完全に切れたわけではなく、梅津政景らが頻繁に往来してご機嫌伺いに訪れた。 義宣からの書状は一通もなかったが、何かにつけ贈り物があったという。 体調を崩したと聞いて、医師を寄越して来たりもした。 不本意な離別を強いた女への、義宣のせめてもの心遣いだろうか。 佐竹義宣は寛永十年一月に64歳で死去。 その6年後の寛永十六年、岩瀬御台は波乱に満ちた生涯を終えた。法名・昌寿院殿光円正瑞大姉。
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