トップページ > 戦国時代 > 2011年11月10日 > YIMqTpm4

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人間七七四年
戦国ちょっといい話29
戦国時代の馬はポニーサイズ
【山内・扇谷】関東の上杉氏 2【犬懸・詫間・深谷】
津軽為信知ってるかい?しらんだろ?

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戦国ちょっといい話29
474 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 20:02:13.72 ID:YIMqTpm4
>>472
最近の研究だと、足利義政の嫡子問題と応仁の乱の勃興は殆ど関係ないらしいぞ。
むしろ足利義視は、応仁の乱の対応で義政と対立して廃嫡された模様。
戦国ちょっといい話29
478 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 20:31:22.24 ID:YIMqTpm4
>>475
「勃興」ね。
そもそも応仁の乱は畠山、斯波の両管領家の家督争いがベースにあって、義政実子義尚の誕生以前、
斯波義廉が畠山義就と、細川勝元の盟友でありながら赤松問題で勝元と対立した山名宗全を結びつけることで
「西軍」が形成された。

これと細川勝元・斯波義敏・畠山政長勢力との抗争が、文正の政変で義政が将軍専制政治の確立に
失敗したことによりストップがかからず、ついに合戦に発展した、という見方が最近では主流だと思う。
そもそも文正の政変では義政は義尚の乳父の伊勢貞親を失脚させ義視の肩を持っているほどだし。

応仁の乱はものすごくややこしいけど、いずれにせよ応仁元年の時点でまだ31歳の若さで、
非常に健康だった足利義政の後継が大きな争点だったというのは、ちょっと無理があると思う。

結果的に義尚が文明5年にわずか8歳で将軍位につくけど、あれは後継抗争の結果と言うより
人心一新のためという要素が強いと思うよ。
戦国時代の馬はポニーサイズ
951 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 21:07:39.83 ID:YIMqTpm4
イギリスで再現された騎士の槍試合。
ttp://www.youtube.com/watch?v=z64AzHIdgKw

乗ってるのは間違いなくポニーですなw
【山内・扇谷】関東の上杉氏 2【犬懸・詫間・深谷】
362 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 21:38:46.70 ID:YIMqTpm4
>>360
そもそも複数のデザインがあって、時期によってどれを主に使うかが異なる、って話かとも。

江戸中期のは歌舞伎的なデザインだな、とはおもうがw
津軽為信知ってるかい?しらんだろ?
654 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 21:40:26.82 ID:YIMqTpm4
>>650
江戸中〜後期は「津軽」といえばアヘンの隠語だったそうな。
津軽為信知ってるかい?しらんだろ?
655 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 21:43:50.87 ID:YIMqTpm4
▽弘前藩とケシ栽培
 アヘンの原料であるケシ(罌粟・芥子)を、弘前藩がいつ頃(ごろ)から栽培していたかは定かでない。貞享3年(1686)5月、
中村道救・松山玄三が阿芙蓉採取を命じられ、数名の藩士がその手伝いをした(「御国日記」)「在々ニ而阿芙蓉取」と記されていることから、
これは野生種のようだ。しかし、元禄13年5月、南袋・千年山・上野3カ所の薬園でケシの花が咲き終わったため、
いつアヘンを取るかの伺いが出されている。その少し前の元禄11年8月にも、藩医佐々木宗寿・辻道益・松山玄三らが千年山に出かけており、
藩公認による栽培は、この時期に始まったとみてよいのではなかろうか。

▽世間の評判
 かつて「津軽」は、アヘンを意味する隠語だったという。しかし、幕末維新期には西日本に、さらに全国へとケシ栽培が広がり、
アヘン産地としての津軽の地位は衰えた。それとともに、「一粒金丹」も、その役割を終えていった。

http://www.mutusinpou.co.jp/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%B4%A5%E8%BB%BD/2009/10/8658.html


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