- 関ヶ原の戦い
25 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 18:24:20.04 ID:+OS+QPY+ - >>5
関原軍記大成で秀秋内通のガセ書状が作られたのは間違いないが、 そもそも秀秋が内通してたとする捏造の元ネタは板坂ト斎記だろう。 家康の侍医の慶長年中板坂ト斎記も事実を改竄してて信憑性がないからね。 慶長元年5月に4歳の秀頼が上洛した際の記述が山科言科日記とまったく違うこと書いてるし。 秀頼上洛で伏見から家康も塗輿で付き従い上洛って言う事実を 京都の宿所から東福寺の門前まで家康と利家が仲良く大声で話ながら馬で迎えに出たと改竄してる。 他にも利家死去すぐの武断派7将の三成襲撃クーデターのメンバーを2人変更改竄してたり。 板坂卜斎のは日記じゃなくて 征夷大将軍徳川家のために後年に一気に書き上げた代物だよ。 だから記述が徳川史観になってる。 前田研究の大家たる岩沢氏も常日頃から家康と昵懇な山科の家族が見誤るわけが無く 家康と利家が馬上で仲良く話ながら秀頼を迎えに出たとする卜斎の記事は虚構だろうと断言してる。 上巻は書き置きからの写し書きで、書き足してる部分は完全にミスジャッジに誘導する歪曲だよ。 明らかに事実を書いたんじゃなくフィルターを通して書いてる。 下巻に至ってはもう日記形式を装うのも放棄して捏造してる。 さらに慶長記も中板坂ト斎記同様に利家と仲良く会話しながら 馬でやってきたとデタラメ吐いて事実化の工作をしてる。 それは加賀藩との関係に配慮して捏造してる証拠。
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- 関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
215 :人間七七四年[]:2011/11/10(木) 19:40:27.04 ID:+OS+QPY+ - 自演毛利キチガイは常駐して荒らし行為をしながら監視してるみたいね。
いい加減に少しは知識的にプラスになることを書いてもらいたいものだ。 慶長3年の隆景遺領問題により4月に筑前+筑後の一部30万石の秀秋は 越前の堀や溝口や村上の越後転封に伴い北陸要路を抑える越前50万石転封となり8月移動。 三原は毛利領になり筑前+筑後の一部は代官三成管理(のち浅野も追加)となる。 それに伴い旧隆景家臣が分裂してるので毛利・秀秋の両者で引き取ることになるけど、この処理問題が長引く。 なぜかと言えば秀就が生まれたことによる秀元分封問題もリンクしていたから。 さらに1/10に秀頼が大坂城へ入城すると1/19に利家ら大老奉行らが 去年11月から多数派工作を開始した家康が遺令を破り婚姻やってるのに怒って詰問使を出して険悪化してる。 これは1/20に和解の方向性が示され2/12の起承文で家康の利家への譲歩でケリをつけてる。 その一方で輝元は秀元+家康に過大要求され秀元分封問題に揺れていて、毛利本領が大幅に削られるため 旧隆景家臣引き取りを財政圧迫と嫌がり、そこに三成が助け船を出して、 筑前三成代官領でも旧隆景家臣を引き取るよって言ってくれていて 1/23には三成と増田の後援もあり秀元とも決着していた。 慶長4年2月5日付け五大老連署では越前転封の取り消しが行われる(秀秋は1/15には筑前に掟を出してる) 小早川執政の山口宗永は(隆景が財政や検地能力が無いため秀吉から秀秋と共に指南として送り込まれた) 越前転封取り消しに関わらず越前改め加賀大聖寺城に居続けてる。 閏3/3利家死去し七将クーデター発生と共の毛利上杉+5奉行連携で家康と対処したが 家康が伏見と大坂(片桐が家康派)を占有してしまう状況になってしまい、 大坂奪回を諦めて三成1人の責として家康と和睦。 輝元は三成に涙して、その決定に胸糞悪いと元康らに憤懣をぶつけてる。 毛利の敗北をもって優位に立った家康は輝元を兄弟と呼び、輝元は家康を親と呼ばせるや 秀元と連携して秀元への分封が少ないとして毛利家中への再度介入を開始する。 どうも利家死去で利長と義兄弟の秀家も動かなくなってたらしい。 8月に利長帰国そして慶長5年に入ると宇喜多騒動・・・会津征伐・・・家康の大老潰しが激しくなっていく。 6/16秀秋は家康が会津へ行くと乱が発生することを憂いて、 家康に対して兄の木下延俊の姫路城に備えとして軍を入れるから借りたいと申し出る。 兄の拒否により計画ならず(兄の延俊は義兄細川忠興と共にガチガチの東軍) 6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立し 6/17日夜に広島に着いている。 6/18に北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒だが (伏見攻めで秀秋が北政所に会っている) 秀秋は6/16以前ですでに姫路に近い場所で乱が生じるのを予見しているのがわかる。 7/5秀家が豊国神社参拝で武運長久を祈る。
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- 関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
216 :人間七七四年[sage]:2011/11/10(木) 19:50:16.90 ID:+OS+QPY+ - 秀秋の心象はよくわからないが挙兵までの秀秋の足取りを追ってみた。
秀秋視点でも、やはり挙兵への道程に三成の参画はまったく認められない。 秀秋の越前転封中止が誰の主導なのかわからないが これは秀秋とガチガチの親奉行派の山口宗永を分断するつもりだったのか 山口の今までの働きから抜擢され大名化したのか 反家康側による北陸方面での戦力配置のためかわからない。 閏3月に利家が死去しなければ、当然連携は可能だろう。
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