- ▼殺生関白▼羽柴秀次▼
920 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 15:16:33.42 ID:IQJ/dYpQ - >>919
そもそも秀長からしてイエスマンなんだが
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287 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 17:18:36.38 ID:IQJ/dYpQ - Wikipediaより
>なお康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の3名は、 >幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E5%8B%9D
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291 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 22:36:23.86 ID:IQJ/dYpQ - 日本人が一般的に、社会がもう安定して平和になったと信じたのは家光の時代で、国内で戦争なんてものはもう
起こるはずがない、とまで感じたのは綱吉の時代くらいだね。
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294 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 22:41:18.65 ID:IQJ/dYpQ - >>290
家光の時代くらいまで、大名の反乱やポルトガルスペインといったカトリック国の侵攻などが、かなり 現実味のある脅威として捉えられていて、幕府もそういったものに対処するための軍備を緩めていない。 大坂の陣以後でも社会的にはまだまだ、軍事的な緊張下にあったのは確か。
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297 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 23:00:02.65 ID:IQJ/dYpQ - >>293
横レスだけど、1600年の関ヶ原の後の国替えで、豊前にいた黒田家が筑前に移る際、移ってくる細川家に対し 当時通例とされた半分残すこと無く年貢米を全部持っていった事が発端。 そして細川家はこれに抗議したのだが、交渉の途中で関門海峡にあった黒田家の廻米船を拿捕しようとする 動きに出て、これで双方こじれにこじれ合戦直前まで行ったが、片桐且元と山内一豊の仲介でなんとか 合戦だけは免れたが、これ以後お互いを仇敵視するようになる。 ぶっちゃけ後藤又兵衛の件も、どうも裏で細川家が後藤の出奔を煽ったフシがある。 あと、細川黒田の家格だが、細川の熊本移封後も、官位は双方従四位下、大広間詰めの国持十八家として 扱われているので、どちらも同格であったと考えていいかと。
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