- 【治部】石田三成総合スレ 9【佐吉】
607 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 18:19:25.78 ID:8knof/SM - >>601
かなり寒いよね。新幹線に乗ってても名古屋や岐阜羽島では天候良いのに 岐阜と滋賀県境あたりがいきなり大雪積もってたりしてビビる。 >>602 まだ尊氏らが生きている時は本格的な寒冷化の時期ではないよ。 足利義持の時代から天候不順になり寒冷化していき飢饉が頻発するからね。 それと北国下向勢凍死の事と言うタイトルの巻だから 凍死がかなり出てるというのも間違いじゃない。 また薄着なんて記述は無いし甲冑を着てるのがわかる。 凍死寸前で馬も兵も凍えて自由が利かない残りの生き残りが自害しただけ。 おそらく河野・土居・徳能も凍死または自害のどちらか。 凍傷壊滅の原因は万路越(峰山トンネル)って言う476mと493mの峰と峰の間の道を通過 もしくはその少し上の奥琵琶トンネル(393mと436mの峰と峰の間)の間の 400m級の通路で凍傷にかかってるはずで、やはり家屋設備の無い400mは死亡フラグだろうね。 それと>>595の>>敦賀って余呉より更に北にあって、日本海側の気候 と言うのはあきらかに間違いで、近江塩津への道中だから敦賀なんて地理すらわかってない。 (そもそも上空で雪が生成されても当日の上昇気流を無視する重さにならないと降雪しない) シャクナゲは1000mの高所に自生する高山植物だけど 琵琶湖東下に位置する標高400mの近江日野町などにも群生するほどの低温地域だし 朝霧が発生するのは秋から春先で、湿度の高さと夜間にかなりの冷え込みが条件になるし 関が原前夜は雨天だし(空気が乾燥してると熱が奪われ雪になり、湿ってると雨になる) 関が原前日の深夜もかなり冷え込んでいたはずだし、 湖近郊で伊吹山・霊仙山・養老山らに囲まれた関が原盆地の方がかえって朝方の冷え込みはきつい。 (琵琶湖は湖陸風が発生し放射冷却が妨げられるが、逆に山に囲まれた地では冷気が溜まり 冷気湖となり放射冷却が促進され温度低下が激しくなるが、昼夜の温度差が激しくなることで 山谷で綺麗な紅葉が見れたり朝霧が発生し易くなる)
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- もし信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 3
781 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 18:23:49.42 ID:8knof/SM - なんだ織田厨からマトモな反論が一切ないまま
ストレートでノックダウンか。 結局、織田軍3万の根拠すら出せずに逃亡か。
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782 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 19:06:48.52 ID:8knof/SM - 浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城したのって やっぱり天正2年4月(1574年)なのかな。 山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど 出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗してたのかな。 でも81歳で年齢的にもう残命はないし、しかも床に臥しているって書いてるから もう病で立てないレベルくさいもんねぇ。 これだけ老いちゃ甲賀衆も見切りつけちゃうよな。 でも慶長3年(1598年)105歳まで生きちゃうんだよなwww wikiは享年78歳とかデタラメ書いてるけど 承禎2人説とか絶対アリだろこれw
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783 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 19:10:17.68 ID:8knof/SM - 謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。 志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。 まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。 赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。 謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる。 上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが 7月元就死後に隆景と対立する元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。 10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば 小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。 義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で 有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して一斉挙兵。 摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し 本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい 相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。 がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために 天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて 輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。 信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し 高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。 これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
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- 【治部】石田三成総合スレ 9【佐吉】
608 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 19:28:48.80 ID:8knof/SM - >>589
信長公記の首巻は特に信憑性がかなり疑われてる。 (若い時の信長について書かれており 桶狭間の戦いも収録。しかし今川方にしか感状がない) 長篠の戦いに参加してない池田を参加したように捏造したり。 同じ著者の太田の太閤軍記や関が原軍記はデタラメ過ぎて誰も引用しない。 田中吉政は良質な歴史記述家をお抱えしてたようだね。 光成氏の奥羽の関が原の記述も面白いよね。 >>606 コーエーの著作物なんて所詮ゲーム脳が出発点。 三成憎しの個人的感情で書いてる偏った 実につまらん著者なんだろ。 まるで彦根市の人間みたいだw
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- ★★★名族 六角氏について語ろう★★★
400 :人間七七四年[sage]:2011/10/14(金) 19:29:29.64 ID:8knof/SM - 浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城したのって やっぱり天正2年4月(1574年)なのかな。 山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど 出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗してたのかな。 でも81歳で年齢的にもう残命はないし、しかも床に臥しているって書いてるから もう病で立てないレベルくさいもんねぇ。 これだけ老いちゃ甲賀衆も見切りつけちゃうよな。 でも慶長3年(1598年)105歳まで生きちゃうんだよなwww wikiは享年78歳とかデタラメ書いてるけど 承禎2人説とか絶対アリだろこれw
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