トップページ > 戦国時代 > 2011年10月01日 > hMTHCs4a

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戦国ちょっと悪い話28

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戦国ちょっと悪い話28
146 :1/2[sage]:2011/10/01(土) 17:31:25.80 ID:hMTHCs4a
では、ゼンキョーさんの末路はスッ飛ばして

陶晴賢(隆房)の死後、大内氏は急速に崩壊、2年後の弘治3年(1557)3月には毛利軍が山口まで侵攻した。
大内義長は、重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたが、毛利軍はあっさり約定を破り
長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなった。

陶氏の家臣・野上隠岐守房忠は、ひとり山口に残された晴賢の末っ子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる
この幼子をかき抱いて言った。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われ、長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、
近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。
もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。

さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶入道の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょうぞ。
亡き父上や兄上方も、さぞかし喜びまする。そうお思いになりませぬか。」

涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸が「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」
と問うと房忠は、
「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、
天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白きこと限り無き所にございまする。
その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです。」と答えた。
戦国ちょっと悪い話28
147 :2/2[sage]:2011/10/01(土) 17:33:29.45 ID:hMTHCs4a
「そうか。そこには、ふねでゆくのか?それとも、うまでゆくのか?」と、なおも問う鶴寿丸。
「どちらでも。舟ならば彼岸への渡し舟が、馬ならば馬頭観音が馬となられて、お迎えに来てくれます。

ただ、その時には敵が太刀を並べて参り、私も太刀で若様を打ちまする。そこで少しも恐れず、笑っておれば
父上様方に会いに行けましょう。もし心残り等して泣いてしまえば、地獄と申す所へ行き、赤鬼青鬼どもの
責め苦を味わい、父上様方に会えませぬ。その上、世人は後々まで『あれが陶入道の子か』と笑うでしょう。」

「そうか。ちちうえにあえるなら、なんでこわがるものか。さぁはよう、ご主君のもとへまいろう。」
「天晴れ!さすがは・・・入道様の・・・・・・」

「?ふさただは、なぜなくのじゃ?主君のおともをして、人にもほめられるのに、なにがかなしいのだ?」
「・・・・・・」
「そ、そうか。わしは、しぬのじゃな。い、いやじゃ!ははうえや、うばとはなれて、しぬのはいやじゃ!」

真相に気づいた鶴寿丸は大声で泣き出したが、すぐに涙をぬぐうと、
「や、やぁふさただ!いまはこうでも長府へまいれば、かなしみも、なきもせぬわ!こころやすくおもえ!」
と言って、顔を赤くしながらも、房忠の隣に立った。

長府で義長と合流した鶴寿丸は見事に殉死を遂げ、介錯をした房忠も腹十文字に切って後を追ったという、
「陰徳太平記」に記された陶氏最期の風景。


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