- 大友氏について語ろう2
556 :人間七七四年[sage]:2011/10/01(土) 17:26:29.72 ID:A7iekaLZ - >>540
種子島に鍛冶職人を派遣しているし、南蛮船からも直接技術を学んでもいる。 さらに唐にも大砲の製造を学ばせるために家臣を派遣している。 後に徳川家康に仕えて、大坂の陣で使った大砲を造った。 >>549 >角牟礼が重要とも思えないんだが これは明らかに間違い。 当時の交通路は、肥後・熊本から豊後に行く場合。 小国を経て玖珠を通るルートと阿蘇から竹田・田北・野津原をへて府内に行くルート。 だから玖珠の角牟礼城は、大友氏直轄で国境の城として防備を固めてあったし。 竹田の岡城もやはり重要拠点。 >>552 んなことはない。 >渋川満頼が九州探題を辞したのち、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言、宗金など商人たちは大友氏の保護下で貿易を行う。 >当時の博多の町は、港がある北東部「息浜」(おきのはま)に6000戸、聖福寺・承天寺周辺の南西内陸部「博多浜」に4000戸あり、 >息浜を大友氏が、博多浜を少弐氏が治めていた。 >日明貿易が再開した1432年(永享4年)、少弐嘉頼家臣・三原入道の家人と秋月満種家臣・原田種泰の家人が見物に来ていた博多祇園山笠の「追い山」の会場にて衝突、 >三原方50人余、原田方20人余の死者を出した。翌年には少弐家人と大内持世家人が博多で衝突。さらに翌年には大内家人と少弐家人が箱崎にて衝突している。 >この他にも守護大名同士や大身らは、筑前国の覇権や日明貿易の主導権をめぐって抗争を各地で起こした。 >1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を博多から追放、筑前や豊前までを勢力下に置き、博多の町は大内勢力と大友勢力の配下となる。
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