- 真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 3
865 :人間七七四年[sage]:2011/09/04(日) 14:22:10.10 ID:zfplFunb - 真田左衛門尉が「幸村」を名乗ったという同時代史料が一切存在しないからだよ
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- 戦国ちょっといい話28
462 :人間七七四年[sage]:2011/09/04(日) 14:54:25.92 ID:zfplFunb - 後藤又兵衛のお話を
大阪冬の陣の事。慶長19年(1614)12月16日、幕府軍による備前島からの大筒の攻撃で、砲弾が大阪城本丸の 淀殿の居間の櫓を打ち壊し、侍女数名が即死するという事態に至った。 これに恐怖した淀殿は秀頼に和議を勧めた。だが秀頼は強い難色を示し、結論は出ない。 そこで大野治長は大広間に組頭以上の者たちを集め、この事を協議させた。 と、ここで進み出て声を上げたのが後藤又兵衛基次である。彼はいう 「もし近い内に徳川軍の総攻めが行われれば、我々牢人衆は討ち死にするでしょう。 同じく、仮に和議になっても、籠城している我々牢人衆は責任を取り腹を切らされるでしょう。 だが討死も切腹も、どちらであっても豊臣家のお役に立って死ぬ、名誉あることことなので、 この点を心配することはありません。 秀頼様は、和議後の牢人衆の立場がどうなるかが心配で、これに反対しておられるのでしょうが、以上の理由により その心配は無用なのです。 私としてはむしろ、家康の身の安全を願うばかりです。」 最後の言葉は、主戦派の将軍秀忠と違い和議を進めようとしている家康に何かあれば講和は成立し得ない、 なので和議が纏まるまで家康の無事を祈っているのだ、ということだろうか。 これに賛同者も出て、治長はこの意見を淀殿に申し上げ検討したそうである。 (慶長見聞記)
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- 戦国時代の食事5膳目
402 :人間七七四年[sage]:2011/09/04(日) 14:59:43.50 ID:zfplFunb - 品種改良以前の牛は臭くて硬くて不味かったから、それをごまかすスパイスのたぐいのない日本で
それを振舞われた人たちはひどい目にあっただろうな。
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