- 戦国ちょっといい話28
314 :人間七七四年[sage]:2011/08/30(火) 00:03:36.21 ID:tHRXCUMQ - >>312
まあ、後に家康が関ヶ原の時に「小牧長久手の時の鬼武蔵と比べたら、宇喜多秀家や石田三成なんて 全然怖くないだろ?」って言ってるから、三河武士の間でも相当の強敵と認識されてたのは確かなんでしょ。
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- 戦国ちょっと悪い話27
599 :人間七七四年[sage]:2011/08/30(火) 02:20:33.82 ID:tHRXCUMQ - >>598
朝鮮役の頃は豊臣姓授与が武功への一種の褒美として与えられていたようで(だから陪臣でも 豊臣姓がやたら居る)勝手に豊臣姓を名乗るというのはその褒賞秩序も破壊する行為に成る。
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- 【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
274 :人間七七四年[sage]:2011/08/30(火) 14:57:41.65 ID:tHRXCUMQ - そもそもこれによって戦に関する三成の評判が凋落し最後までそれを取り返せなかった事を考えれば、
その点に置いて決定的なボロ負けである。
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- 戦国ちょっといい話28
339 :人間七七四年[sage]:2011/08/30(火) 18:18:28.99 ID:tHRXCUMQ - 三河一向一揆も永禄7年(1564年)になると一揆から吉田現太郎左衛門、蜂谷半之丞、石川善五左衛門、同半三郎、
本田甚四郎といった面々が離脱、家康の優位が決定的になっていった。 さて、この頃一揆の主力の籠っていた土呂の本宗寺は、先に降服した面々を通して、家康に対し講和を 働きかけた。そこで出してきた降伏の条件は3つ 第一・この度一揆に参加した諸侍達の本領安堵のこと。 第二・真宗の道場ならびに僧俗共に、元のように立て置かるべきこと。 第三・一揆の張本人、一命を助けられるべきこと。 この条件を受け入れてもらえれば、今後家康に対し忠節をなし、未だ抵抗を続ける上野城も自分たちで攻め落とし、 さらに諸方の残党たちも尽く退治し、忠勤をなす。 土呂の一揆勢はこう言ってきたのだ。 この事を老臣・大久保忠俊より聞かされた徳川家康は即座にこれを拒絶する意向を示した。 徳川家中を二分するほどの内乱を起こした一揆勢にとってあまりにも都合が良すぎる、そう思ったのだ。 が、ここで大久保忠俊が強いて言上した 「殿の御憤は御尤の事です。しかし、ここはよくよく、今後のことも含めてお考えください! 第一に、このように国中騒動に及んでいるうちに、もし他国から攻め込まれれば、内外の敵に挟まれ 御家の存亡は計りがたく、例えそういったことがなかったとしても、考えてみてください、今度の一揆の 勃発により去年の冬以来我が御家は、他国に進出することが出来なくなりました。 これは非常に嘆かわしい状況です。 そもそも、今度の一揆に遺恨を言うなら。この常源(忠俊)こそ1番でしょう。 私はこの一揆との戦いで子供や孫たちを始め、親類たちが数多く討死致しました。 この老齢になってからの私の嘆き悲しみは、言葉にすることもできません。 ですが、これも全て殿様の御為である以上、例え子供たち全てが相果てるような事になろうと、 決してそれを厭うものではありません。 その上で申し上げます。なにとぞ一揆共の御願いを、言った通りに了解され、残らずお宥しなされてください。 そして一日も早く、再び御家が他国に進出できる態勢を整えてください!」 そう、涙を流して訴えた。 家康はこの大久保忠俊の言葉に深く感じ入り、しばらくしてつぶやくように言った。 「いかようにも、お前の良きようにせよ。」 これにより2月28日、ついに和平整う。三河一向一揆はついに収束した。 大久保忠俊が、家康に講和を受け入れさせた事の逸話である (三州一向宗乱記)
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