トップページ > 戦国時代 > 2011年07月30日 > HkL5D/QP

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人間七七四年
戦国ちょっと悪い話27
戦国時代の食事5膳目
【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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戦国ちょっと悪い話27
230 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 03:49:32.32 ID:HkL5D/QP
関ヶ原の後の事

『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。

彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。

治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。

この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。

彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。

しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。

刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。

様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。

彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。

摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)

日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。
戦国時代の食事5膳目
41 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 20:04:56.54 ID:HkL5D/QP
>>40
ちょっと>>36覗いたら、知ったかだらけでまるで参考にならないんだが
【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
788 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 20:08:18.00 ID:HkL5D/QP
例えば蓮の収穫量はどちらの方がぐれているか、とか、そういうものを見てみるべきだろうな


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